生々しく残るアウシュビッツでの遺留品の数々・・・編-ポーランド旅行記-34

ポーランド旅行記:5日目
阪急交通社ツアー「おひとり様参加限定:決定版ポーランド8日間」にて–2019年11月–

無残に残されたカバンや眼鏡など

ここはポーランド南部にある有名なアウシュビッツ、その敷地内にある元収容棟の中に入って展示を見学しています。こちらは列車で各地のユダヤ人が連れて来られ、収容所へ連行された後の様子をSS隊員(ナチス親衛隊)が写真に撮ったもの。

連れて来られたユダヤ人達が持っていたカバン類などの荷物は、ここで強制的に捨てるように指示されその荷物が奥で固めて置かれているのが見えます。

 

1940年6月から1945年1月の期間に渡って”ナチスドイツの敵とされた”人々が強制的に収容されたアウシュビッツ。元々の地名はオシフィエンチム市であったこの場所、鉄道などの交通の便が良くて周囲も拡張するのに適していた土地であったという。

この場所には大きく3つの強制収容所と数十の副収容所(農業や工業の労働者)がこの一帯に造られる。その為に地元ポーランド人約8,000人は強制退去を求められた。

 

第4棟の2階に登る

この擦り減った階段を登って行きます。多分その当時はここまで擦り減ってはいなかったハズで、その後1979年に世界遺産にも登録され、戦争後から訪れた大勢の見学者達の足跡の歴史が垣間見れる階段の擦り減り具合。

 

この4号棟の2階は、ちょっと薄暗く奥にはショーウインドウの中に何か展示されているようだ。

 

連行されてきたユダヤ人女性たちが裸にされて、ガス室に送られる直前の様子を撮影した写真。ここに送られる前から過酷な状況下に置かれていた為に、やせ細っている体がボヤけた写真でも分かる。こちらは被収容者によって隠し撮りされたもの。

 

この収容所も初期の頃は連行されてきた囚人達を識別していたが、途中からはその大半約75パーセントが施設に着くと共にガス室送りになったので書類すら作成されなくなっていった。

 

こちらは殺された死体が燃やされている時の写真。この収容所で殺された人々を扱うのはドイツ兵ではなく、収容されたユダヤ人などから選ばれた「ゾンダーコマンド」というメンバーの仕事。彼らは一般の労働には使われずに、このような同類の人々が惨殺された姿を見ながらそれを扱う、拷問のような仕事でもあった。

そして時には自分の親類や家族の遺体を扱う場面もあったという。そしてそんな彼らも一定期間業務をした後は解放される事なく、自分もそういった処理をされる側になるのであるが。。

 

ここで収容された人達の中にも衰弱する中、反抗し脱出する決意を強く持っていた人もいた。レジスタンスでは外部の協力者と結束し、SS隊員の隙を狙って物資を調達したりもできたようだ。

 

こちらはガス室の模型。アウシュビッツでは最初の頃は死体を近くに掘った穴に埋めていた。しかし1942年7月にヒトラーの側近で収容所の全権限を持っていたヒムラー長官がアウシュビッツを訪れた後、証拠隠滅の為に1942年末までに約10万体にも上る遺体をゾンダーコマンドが掘り返してこのように焼却炉で焼却した。

そしてその骨を粉砕し、近くのビスワ川などに撒いたのである。

 

いたたまれない場所だった為に、見学者達はその事実にちょっとショックを受けているような感じにも見える。。

 

そんな収容棟の床。多くの人達を受け止めてきた床だろう。

 

このように大量の死体が初期は埋められていたのである。それを掘り起こす”ゾンダーコマンド”も、殺されたのと同じく連行されてきたユダヤ人などの人達である。そんな仕事を命じられて、辞める時は自分が死ぬ時。勿論最初に任命された時に断っても殺されるだけ。何とも悲惨な”生殺し”の業務であった。

 

こちらは「クレマトリウム」と呼ばれる、ガス室と焼却炉がセットになった複合施設。最初アウシュビッツ強制収容所に設置されたクレマトリウムⅠは1941年9月25日に設置された。1つのガス室と3つの焼却炉が併設されており、1日で340体の処理が可能であったようだ。

 

アウシュビッツ強制収容所での当時の景色2

だがその後1943年8月頃から使われなくなり、その役目は近くに建設されたビルケナウ強制収容所(第2アウシュビッツ)に移っていく。ビルケナウではクレマトリウムⅡ~Ⅴの4つが造られ、最大1日で約8000体の焼却が行われたようだ。

 

そんなガス室で連行されてきた”労働不能”と判断された人達を殺害した毒物が、ここに大量に置かれている空き缶に入っていた「ツィクロンB」(Zyklon B)という害虫駆除剤である。

 

青酸を液体にしてこのような珪藻土の固まりに吸わせた物質を缶に詰め込み、缶を開封して空気と触れさすと気化された青酸が辺りに充満して殺傷させるもの。元々は害虫駆除剤として開発されたもので、船や建物などでネズミなどの害虫を駆除する目的だったのでアウシュビッツ収容所にもクレマトリウムが造られる前から大量に保管されていた。

 

こちらはそのツィクロンBの取引した書類が展示されている。第一次世界大戦で敗北したドイツはその時に締結したヴェルサイユ条約によって化学兵器製造を禁止された。そこでドイツは「ドイツ害虫駆除会社」を設立し、裏で化学兵器の開発を進めたのである。

その後1942年に「テッシュ&シュタノベ社」(Tesch&Stabenow)という化学製品販売会社が設立されて、船や倉庫・工場・貨車などの害虫駆除に使われていくのである。

 

間違って穴を空けると気化してしまうので、慎重に扱われたツィクロンB。ある証言によると約1,500人を殺傷する為に5~7kgのツィクロンBが必要だったそうで、アウシュビッツだけで1942~43年の間に20トン(2万kg)のツィクロンBが使用されたという。

 

缶のラベルには「GIFTGAS」という毒ガスの意味の文字と共に骸骨マークも見える。

 

2階の5号室に進む

続いて2階の5号室に進みます。こちらの先は暗所になっていて、写真撮影が不可能な場所になっています。

 

この部屋にはこのような連れて来られたユダヤ人女性から切られた髪の毛の束や、それらから作られた生地が展示されています。1945年1月末にソ連によって解放されたアウシュビッツには約7トンものこういった髪の毛が、ドイツ第三帝国向けに出荷する前の物が見つかったそうだ。そんな髪の毛が2トンもここで展示されているのである。

 

1階の6号室に進む

そんな生々しいものを見た後は再び1階に降りて、6号室に入る。こちらは列車で連れて来られた人々が強制的に捨てられた手荷物の山が写った写真。これらの荷物は被収容者から選別された部隊が識別して倉庫に保管されて、活用できるものはドイツ第三帝国内に出荷されていくのである。

 

こちらはこのアウシュビッツ強制収容所と近くに設置された第2アウシュビッツであるビルケナウ収容所の航空写真。この2つがこの時代にナチスドイツ領地内で設置された沢山の収容所でも最大の敷地であった為に、この2つだけが歴史的な人類の負の遺産として後年に渡って保存されるのである。

 

当時のヨーロッパではスラブ系やユダヤ人でも東方に居たユダヤ人は、劣等民族として考えられていた。特にユダヤ人はキリスト教が主流となっていった中世ヨーロッパでは衰退していく他の宗教とは違い、活気がある宗教であった為にキリスト教徒からは敵視される事になる。

そしてユダヤ人の就ける仕事が少なくなっていき、キリスト教徒には不向きな高利貸しなどの仕事に就かざるを得なくなった。しかし嫌われる高利貸しで金儲けをしているというイメージも付き、また救世主キリストを殺したのはユダヤ人という、歴史的な考えもあってヨーロッパでユダヤ人は蔑まれた存在になっていったのである。

かたやユダヤ人側はお互いに結託してユダヤ人共同体の団結は強くなっていって、余計にお互いの溝が深まっていくのである。

 

こちらは連れて来られた人達の荷物が保管されていた、「カナダ」と名付けられていた倉庫。

 

そんな荷物の入った倉庫も、ソ連侵攻が思うように進まずに不利な状況になり、ソ連軍が近づいてきた為にアウシュビッツを放棄する際にそんな荷物も燃やすのである。しかし大量にあり過ぎて、全部を焼却させる事は出来なかったようだ。

 

戦争に突入し、物資も不足していた為に収容者達が持ってきた衣服で上質な物はドイツ第三帝国に持ち運び、他の衣類は繊維産業工場に持ち込み、原料として再利用された。

 

当時は金歯の差し歯をしていた人もいて、そういった金歯もキチンと回収して金の延べ棒にしていった。連れて来られた人達も映画「シンドラーのリスト」の中でもあったように、ダイヤをパンに包んで飲み込んだりした人がいたのだろうか?!

 

そしてそんな荷物のアイテム毎にリスト化された書類。

 

第5号棟の見学

続いて隣にある第5号棟の見学に向かいます。外見は似たような造りばかりの建物が並ぶ。

 

こちらの建物には保管倉庫に残されていた、被収容者達の所有物が展示されています。

 

このアウシュビッツ強制収容所では本当に多くの観光客などが見学に訪れます。それだけ訪れる価値のある場所でもあり、訪れるべき場所なのでもあるのだろう。

 

まずは大量の眼鏡が見える。こうやって見ると、昔のメガネは今みたいにお洒落なフレームがなく殆ど同じ形状だったのが分かる。

 

次はユダヤ人が祈る時に使うショールが置かれています。

 

ただこちらのショール「タリート」は、ユダヤ教でも男性が着用するもの。ユダヤ教の礼拝時に頭に被るものらしく、エルサレムの街中では被っている人は見かけなかったな。

 

その他にも大量の日用品も見つかったようだ。このように大量のクシの中にも頭髪をカットする為のはさみもあったみたい。

 

皮のカバンや靴を磨く為のブラシも大量にあったようだ。

 

この第5号棟の廊下には、このような写真が展示されていた。

 

これらの写真を見ると、現在とは生活環境が大きく違うのがよく分かる。先程の眼鏡にしろ、靴にしろ、多様性がなく同じようなものが並んでいる。

 

大量の衣服が所狭しと置かれていた状況の写真。ナチスドイツも戦争が長引き、国内も物資が不足し、こういった衣服も再利用せざるを得なくなっていく。

 

コルセットや義足も大量に置かれている。ナチスドイツでは身体障害者は労働不能者として、真っ先に殺される運命にあった。

 

松葉杖や義手・義足を見ると、その当時の生生しさを感じる。。

 

そんな気持ちと共に昔から、こういった器具などを使っていたというのが見て分かる。21世紀に生きる自分達がいかに多様性があり、進んだ技術の元で快適に暮らしているかという事を実感できる瞬間でもある。

 

並べられた義足やコルセットなど 動画

 

窓から見えるのは無機質な鉄条網。緑が青々とした芝生が見えるけど、当時はこんな芝生もなかったのかもしれないな。

 

アウシュビッツ内はツアー団体ばかりなので、ちょっと渋滞気味・・。

 

こちらも大量のお皿やマグカップやヤカンなどが置かれている。

 

ここに移送されてきたユダヤ人もナチスドイツから「東方への移住する為の移動だ!」と聞いてきたので、生活必需品を持ってきたのだろう。もし今の時代だったら、こんな部屋もスマホやモバイルバッテリー・充電コードなどで埋もれているのかもしれない。

 

アウシュビッツを訪れると「気が重くなった」とか「食欲が無くなった」とか言う声を聞くけど、ボクに至っては特に何も心境の変化は無し。逆にこういった場所を訪れて、色んな知識を得れた事に喜びを感じる。

ちなみにツアー参加者さん達もこの後の昼食では、逆に食欲が出た位にみんな昼食を完食していたけどね・・

 

当時の人達の日常的に使用していた道具なども置いてある。

 

この場所は多くの人達の命が無残に失われた場所だけど、それを見ないのではなく、しっかりと目を開いて目に焼き付ける位の気持ちで見学すべき所なのである。

こんな様子はまた次回に続きます。

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