ポーランド旅行記:5日目
阪急交通社ツアー「おひとり様参加限定:決定版ポーランド8日間」にて–2019年11月–
残されたものが問いかけるものとは?!
ポーランド南部にある第二次世界大戦中にホロコーストの現場となったアウシュビッツ強制収容所。敷地内にある2階建ての棟では内部で資料や遺留品などが展示されています。
第5号棟の2階へ
こちらは第5棟の2階に上がってきました。まずはこちらの4号室から見学していきます。
こちらの部屋に入ると、まず大量に山積みされた革製のカバンが目に入ります。
沢山の見学者が押し寄せるアウシュビッツ博物館。1日で見学できる時間帯の大半は個人では申し込めず、英語ガイドなりが付いている現地ツアーに申し込まないと入れません。
そうしないと人が多い時間帯に好き勝手に施設内を見学されると大混雑になるのでしょう。でも必ずガイドさんが付いていて、施設内の見学は一方通行が守られていたのでそこまで混雑する程でもなかった。
「ヨーロッパ東部に移住するだけ」と騙されて列車に乗せられて運ばれてきたユダヤ人の多くは、トランク1つだけでやって来たものの、収容所に着いた途端に持ち物を全部取り上げられて収容所送りでもしくはガス室に直行になるのである。
カバンには所持していた人達の名前や生年月日などが書かれている。後でカバンが返ってくると信じていたのだろうか。
山積みになったカバン 動画
このような子供服や靴なども。この強制収容所では小さい子供は労働力にならないと判断されて、その多くはガス室送りになる運命であったようだ。
強制収容所に収容された人達は満足な着替えも与えられずに、長い期間同じ囚人服を着続けないといけなかった。その為にチフスなどの感染症やシラミなどにより、不衛生な状況下にあり、時にはそれで命を失う人も少なくなかったのである。
無残な処刑が日常茶飯事だった収容所内。ただしSS隊員(ナチス親衛隊)の中でもそういった事に心を痛めるものもいた。映画「戦場のピアニスト」で主人公のピアニスト:シュピルマンの命を救ったドイツ将兵ヴィルム・ホーゼンフェルトもユダヤ人が虐殺される事に納得せずに、判明すれば自分の命が危ないにも関わらず多数のユダヤ人を助けたとされる。
この映画に登場するシュピルマンもホーゼンフェルトも実在する人物である。
ここからは大量の靴が保管されている。
資料には衣類は再利用されたと記載があるが、靴に関してはどう処理していたかという記載がない。水虫の人が履いていたかもしれないので、ひょっとしたら再利用されていなかったのかもしれないな。。
この大量の靴とボクらを挟むガラスが無ければ、とてもこの空間が臭かったのかもしれない。
そういった意味ではガラス越しに見るのと、直接物と向き合う事で匂いも感じて見学するのとは感じ方が大きく違うのかもしれない。
靴紐が無いのもあって、ひょっとしたら靴紐だけ再利用されていたのかも。
これでもかというばかりの量が展示されている。。
遺留品の大量の靴が並ぶ 動画
こうやって見ると当時の靴は大半が革靴だったみたい。
続いてはそんな革靴などを磨いていたと思われる、大量のブラシ。
ただ一口にブラシと言っても、沢山の形のものがある。
当時は革製品の物が主流だったので、それだけ磨かないといけなかったというのがよく分かる。
ボクも会社にお勤めの時は革靴を履いていて、定期的に磨いていたけど、気を抜いたら当分磨かなくなったりしていたな。。
この建物の中などは特に匂いはしない。
さて、こちらの不揃いな円形ケースは何だと思いますか??
ヒントは先程見てきたものに関連するものです
正解は靴など革製品を磨くクリームが入った缶。この収容所にまで持ってくるという事は、貴重品で大事な物だったという事が分かります。
建物を出ると、代わりに沢山の見学者がすれ違いざまに建物に入っていきます。後ろに見える白いトレーナーを着た団体はイスラエルからの学生たち。
多くの被収容者が歩かされた道。収容所の朝は夏場:朝4時30分・冬場:朝5時30分に起床。収容所内は昔から収容されている被収容者が支配している環境で、SS隊員ではなく彼らが新人被収容者などを教育していた。時には彼らによる酷いイジメもあったようだ。
こういった劣悪な環境下ではまともな人間ですら、精神に異常を期す人が大勢発生するのだろう。
1日の労働は実に12時間のハードな肉体労働。しかしその労働に見合った食事は提供されずに、僅かなカロリーのスープとパンが大半であった。パンも全部食べると勿体無いという事で、少しずつしか食べなかったようだ。
そんな環境だったので極度に痩せていき、痩せによる下痢や臓器が弱り収容所内でも多くの人達が亡くなっていったそうだ。
これまで第5棟・第6棟と内部の展示を見学したけど、全ての施設を見学すると1日かかるので第6棟と第7棟は素通りしていく。
夏場だとまだ暖かいけど、冬場は極寒だっただろう。そんな時期にロクな暖房設備の無い施設に閉じ込められて、悲惨な時代を過ごしたのだろうという光景が頭をよぎる。
約130万人が収容されたアウシュビッ強制収容所で18歳未満の数は、約23万人。そして1945年1月27日にソ連によって、ここが解放された時にここで生き残っていたのは約700人だったそうだ。
2階建ての棟は理論上700人を収容できるとしていたが、実際に収容されていたのはもっと多い人数であったようだ。
一番左側に見える建物は「第10号棟」で、ここではナチスドイツの産婦人科カール・クラウベルグ博士によって人体実験が行われた所。
ユダヤ人やスラブ民族などを断種する目的の人体実験(女性囚人に対しての不妊処置)などが行われていて、生きた人には麻酔を与えずに行ったそうだ。何百人が人体実験の犠牲になり、生き残った人も重大な疾患や不治の障害が残った。アウシュビッツ強制収容所内でもそんな残忍な事が行われた場所なので、ここだけは入場不可になっている。
そんな第10号棟と第11号棟の間で、奥に見える壁が”死の壁”と呼ばれるもの。
ただし見学ルートはここから入って死の壁に行くのではなく、第11号棟の見学を済ませて建物から出て向かうようになっています。
第11号棟の見学へ
第11号棟は「アウシュビッツの監獄」とも呼ばれた場所。ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に囚われた囚人や懲罰対象になった被収容者が閉じ込められた場所。また建物内には臨時裁判所もあり、囚人を死刑判決にしていた場所でもある。さらに地下には懲罰房があり、狭い部屋に4人が閉じ込められての”餓死刑”などが執行されたのである。
ちなみに労働中の排泄や落ちていたリンゴを拾っただけで、懲罰対象になったという。
臨時裁判といえども、囚人には弁解するチャンスはおろか発言さえできずに有罪と判決された。2~3時間の間に百数十の死刑判決が下りたそうだ。死刑判決を受けた囚人は奥の部屋にある洗面台で裸になり、建物の横にある、さっき見た死の壁の前で射殺された。
ただし人数が少ない時にはこの廊下でも射殺されたという。確かにこの廊下の壁には銃弾痕のような穴がそこら中に空いていた。。
入ってすぐ右手にある部屋はSS親衛隊の当直室がある。ベッドも左奥に見える。
こちらは入って左手前にある臨時裁判所となっていた部屋。それらしき部屋の内装、ひたすら死刑が下される部屋だったのだろう。
こちらは部屋の壁、何とも不気味な模様の壁である。。
第11号棟内部の様子 動画
7号室は古参の被収容者が暮らしていた部屋。彼らは少し別待遇になっていたようだ。
こちらは洗面室、男性と女性&子供用に分かれていたそうだ。死刑の前に服を全部脱がされるが、勿論洗面室で体を洗うといった事はされなかった。ただ服を脱いで裸になるだけ・・・。
なお、地下に進みますが地下は写真撮影禁止。地下の独房で身代わりになったマキシマリアン・コルベ神父が餓死刑を受けた狭い部屋や”闇牢”と呼ばれる換気と明かりが限られた部屋もあり、そこでは酸欠になって死に至る処刑場でもあった。
また地下では1941年9月にツィクロンBを使った、初めての大量殺人を実験的に行った。その際犠牲になったのはソ連軍捕虜約600名とポーランド人約250名。
”死の壁”の前に立つ
そして当時死刑に処された人々のように、第11号棟の横の出口から階段を降りてくると”死の壁”が目の前に見えてくる。
そんな壁の前には多くの献花が置かれている。ここで射殺された人は6,000名以上に上るそうだが正確な数字は分かっていない。またこの広場では銃殺以外に絞首刑をしたり、鞭打ちや両手を後ろ手に縛り、宙吊りにする刑なども行われた。
ちなみにこの”死の壁”はナチスドイツが撤退する際に証拠隠滅を図って破壊された。今目の前で見ているこの壁は復元されたものである。
こちら第10号棟の人体実験が行われた建物の窓は全て板で覆われていて、何も見えないようにしていた。ただし銃声や悲鳴は聞こえていただろうし、逆にこの人体実験が行われていた棟からの悲鳴も聞こえていただろう。彼らは麻酔を使わずに平気で人体実験を行っていたのだから。
それと建物の手前に突き出ている木材の先には鉤が付いてあって、ここに後ろ手をした囚人を宙吊りの刑にしていたのである。
右側の第11号棟の2階と地下の窓には、この広場が見えないように目隠しがされていた。でもここに収容されていた人達は色んな情報が行き交っていたハズで、こんな目隠しの先で何が行われていたかは知っていたのだろう。
アウシュビッツ強制収容所内でも特に残忍な事が行われていた第10号棟と第11号棟。今となってはそんな気配もしないような場所だが、当時の事を想像するだけで血が引いてしまうような場所であった。。
こんな様子はまた次回に続きます。
↓↓↓↓ポーランド旅行記:初回↓↓
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