鉄条網が物語るアウシュビッツ収容所の姿-ポーランド旅行記-36

ポーランド旅行記:5日目
阪急交通社ツアー「おひとり様参加限定:決定版ポーランド8日間」にて–2019年11月–

有刺鉄線の先にあるもの??

ここはポーランド南部にあるアウシュビッツ元強制収容所跡で、1979年に世界遺産に登録された場所。約130万人が収容されて、その多くが惨殺された場所であり、それを”20世紀の人類の負の遺産”として残す事にしたのである。

 

アウシュビッツの敷地外周には収容された人達が逃げださないように、このように有刺鉄線が何重にも張り巡らされていた。

 

そんな有刺鉄線には電流も流されていて、触ると感電死する程でもあったという。ただしこの収容所内では強制労働や少ない食糧による餓死や流行り病などでも命を落とす事が多く、自殺したいと願う人達も大勢いたようだ。

 

希望を持てる人はそんな過酷な状況下でも命を繋げて生きようとするが、希望のない人からしたら早く辛い目から解放されて死にたかった場所だろう。

 

こちらの第20号棟は病院的な場所であったが、病人が溢れかえった為に病人の治療は行わずに心臓にフェノール注射を行い、殺害していくようになった。直接フェノールを心臓に注射する事により、数秒で息絶えたという・・。

 

そんな壮絶な場所であったアウシュビッツ強制収容所。今となっては建物間に見える、このような青い芝生が落ち着きを与えてくれる。

 

ナチスドイツも初期の頃からユダヤ人を虐殺していた訳でもない。当初は”追放”を考えて、ゲットーと呼ばれる塀で囲まれたユダヤ人専用区を造り、狭い空間に大量にユダヤ人を閉じ込めた。

 

その後ソ連との戦争が勃発すると大量射殺に代わっていく。長引く戦争により、物資や食料の減少でユダヤ人を生かしておく余裕が無くなり、また大量射殺による兵士の精神的重圧を解く為にも毒ガスを用いた大量殺戮へ移行していくのである。

 

点呼広場・集団絞首台にて

こちらには見せしめの為の絞首台があります。こちらもナチスドイツが撤退する時に証拠隠滅を図って破壊されたものですが復元されています。

 

脱走者が出た場合、その脱走を手引きした者やその疑いがある者をここで絞首刑に処しました。1943年7月にはここで12人同時に絞首刑に出来るように作り替えたという。

 

1943年7月19日に一般市民と連携して3名が脱走した為、それを手引きした12人のポーランド人を絞首刑にした場所。その様子やその時の犠牲者の内容が壁に張られている。

 

ここでは点呼が朝と夕方に行われて、どんな炎天下であろうと大雨であろうと、極寒であろうと行われた(摂氏37度からマイナス20度の気温)。そしてその点呼も簡単には終わらずに数時間かかり、長い時には十時間以上も行われたという。そんな長時間の点呼で命を落とす者もいたそうだ。

 

収容者を監視するSS隊員(ナチス親衛隊)はこちらの監視ボックスの中で、悪天候の最中でも被収容者の動きを確認していたという。

 

至る場所で想像もできないような、鬼畜な状況下にあったアウシュビッツ強制収容所。ただしそれはこのアウシュビッツに限られた訳ではなく、当時ドイツ領地内に置かれた数十個の収容所でも同様な事が行われていたのである。

 

ここからは建物を隔離するように、有刺鉄線が張られている。よく昔プロレスラーでその後国会議員にもなる大仁田厚が、リング上で電流の通った有刺鉄線内でプロレスをしていたのを思い出す。

 

その時は有刺鉄線に触れると火花が散っていたけど、ここではそんな生半可な状況ではなかったのだろうな。

 

有刺鉄線が張り巡らされた敷地内 動画

 

このアウシュビッツ収容所には合計約130万人が収容され、その内約110万人が殺されたとされている。しかしこのような強制収容所はナチスドイツの領地下には数十箇所もあり、またそれ以外にユダヤ人が閉じ込められていたゲットーでも理不尽な殺人は日常茶飯事であった。

また殺人までいかなくとも、餓死による餓えでの死亡も日常茶飯事でありホロコースト全体で約600万人は殺害されたのではないかという考えが一番多い。

 

ただしあくまでもその数字は概略であって、実際にどれぐらいの人が亡くなったのかは不明である。そもそも記録自体がないのであるから。

 

ただこのアウシュビッツ強制収容所も脱出不可能な要塞だった訳ではなく、何人かは脱出した事実が残っている。ただしこの周辺には民家はなく、運よくこの収容所から出られてもその後の追っ手によりその大半は皆殺しにされたという。

 

今では電流も走ってない有刺鉄線だけど、これが触れたら死ぬ位の電流が通ってたりしたら、こんな風に何も気にせずここを歩いたりはできなかっただろう。

 

ナチスドイツが当時行っていた虐殺は、それを行うナチス親衛隊の兵士が病んでしまう位の行為でもあった。なので簡単になおかつ大量に殺害出来て兵士に重圧がかからない毒ガスによる大量殺戮が生み出されるのは時間の問題であったのだろう。

 

収容所所長の処刑場

続いて見えてきた、ちょっと高くなった場所には元々収容所内にあった、ナチスドイツの秘密警察ゲシュタポの事務所があった場所。

 

収容所内で脱走未遂などを犯した人間を尋問・拷問した場所でもある。

 

アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス 絞首刑にされる時のヘス所長

そんな建物のあった場所でこのアウシュビッツの初代所長であるルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは、戦後ポーランド最高人民裁判所により死刑を宣告されてこの場所で1947年4月16日に絞首刑にされるのである。

 

アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス 活躍中のヘス所長

彼はヒムラーからの指令”ユダヤ人の絶命計画”を聞いた時に「この命令は尋常な沙汰ではないと思った。しかしそれは命令であり、何ら断る考えすらなかった」と後年証言している。

 

戦争敗退後、国防軍に紛れ込みイギリスの捕虜になった後に身分がバレる事なく釈放になった。しかし別に逃げていた彼の家族が尋問された末に居場所を白状してしまい逮捕された。その後にニュルンベルク裁判に出頭しアウシュビッツで250万人をガスで殺したと発言している。

 

アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス 捕まった時のヘス所長

また裁判の中で「ヒムラー長官からの命令を拒否できたハズだ!」と問われると、彼曰く「ヒムラー長官と対峙した時に周辺にはナチス親衛隊員が沢山いた。そんな中で、長官の命令を拒否などできるハズもない」と答えたという。

 

ちなみに下記の記事はワシントンポストに掲載された、このアウシュビッツ初代所長ルドルフ・ヘスの娘の独白記(英文)である。

 

この時のナチスドイツに所属していて、蛮行に及んだ人間の大半は彼のように「命令だから断れない。断れば死が待つだけ!」として従わざるを得なかった人達が多かったのだろうと予測される。

戦争を体験し、武力が一番の抑止力になるとしてドイツの首相となってからは敵対する勢力を次々と政治犯として、捕らえて処刑していったヒトラー。ヒトラーの”恐怖政治”の恐ろしさが、このアウシュビッツに来ればよく理解できる。

 

クレマトリウム(ガス室)跡

この建物はこの第1アウシュビッツ強制収容所で唯一建てられた、ガス室と死体焼却炉がセットにされた「クレマトリウム」跡である。

なお、こちらの建物は第2アウシュビッツである、近くに建設されたビルケナウ収容所がその後虐殺メインの場所となった為に解体されて別の建物になった。なので今目の前にあるのは戦争後に復元されたものである。

 

そんな復元されたものではあるが、重たい扉を見ながら暗闇が広がる建物内へ進んで行きます。

 

建物内はフラッシュが禁止ではあるが、写真撮影自体はオッケーである。

 

ここに建てられている石碑には「ここで数千人が殺された場所。ここでは沈黙を守るように、それと亡くなった人達への敬意も忘れないように」という感じで文字が入っている。

 

クレマトリウム(ガス室)はこのアウシュビッツ周辺の施設で合計5箇所造られたが、見学できるのは復元されたこのガス室のみ。残り4つは全てビルケナウ収容所にあるが、全て破壊されて復元はされていない。

 

このガス室では連行されてきた人々がパニックを起こさないように「収容所に入る前に体を洗浄する為の場所」とアナウンスしていた。そういったようにカモフラージュさせる為に、天井にはシャワーヘッドが何個も設置されていたという。勿論そのシャワーヘッドから水などは出てこないのであるが。。

 

アウシュビッツを脱走した人間などの話から、この場所で行われている虐殺が色んな場所で噂になっていた。そういった事もあってか、信憑性を持たす為にたまには石鹸などを手渡して、彼らを信じ込ました事もあったそうな。

 

映画「シンドラーのリスト」の中で、シンドラーがお金を払って買った”シンドラーのリストに名前が載っていた女性や子供”が間違ってビルケナウ収容所に連れて行かれるシーンがある。

 

そしてこのようなガス室と見られる、暗い室内に進んで灯が消された時に室内に悲鳴が響き渡る。ガス室の噂を聞いていた彼女たちは泣き騒ぐが、その後シャワーから水が滴り落ちてきて、その悲鳴は歓喜の声に変わるのである。だが恐らくそんなケースは稀で実際は殆どがガス室送りだったのだろうが。

 

クレマトリウム内の様子 動画

 

こちらはそんなガス室の隣に併設されている焼却炉。このように当時の部品を集めて、再現されているのである。

 

お葬式ではこのような窯に1体しか入れないけど、3~4体を詰め込んでいたようだ。

 

それまではガス室から死体を運び出して、丘などで大量に焼却していたがクレマトリウムが出来た事によって死体の処理スピードが向上するのである。それにより、より本格的な大量殺戮が始まっていくのである。

 

こちらの建物には、足元にレールが設置されていて、死体を乗せた台車を移動できるようになっている。まるで鉄道車庫のような感じにも見える。ちなみに焼かれた死体から出る骨は粉砕されて、近くの川に廃棄された。

なお、周辺にはこのアウシュビッツに勤務するSS隊員の家族などが住んでおり、アウシュビッツ初代所長の実の娘によると「近くを流れている川が急に灰色になる時があった。後で判った事だけどあれは粉砕された骨が流されたものだった」と語っている。

 

そんな話を聞くと、生きた心地がしない、冷たい建物である。。

 

これにて一応アウシュビッツ第一収容所の主要な場所を見学終了。

 

これらを見学していると、今自分が命の危機がなく、平和な日々を過ごせている事を幸せに感じる。ここに来ると普段の悩みや愚痴などを言っている事がしょうもなく感じてしまう位の場所である。

 

今となってはこの有刺鉄線も、落ち葉が絡むだけになっている。

 

さて、これでここでは見学終了だがこことセットになっている”アウシュビッツ第2”と言われる、ビルケナウ収容所もこれから見学しに行きます。

 

このアウシュビッツ収容所を一周し、こちらの先にある出口に向かいます。

 

一応一方通行なので、このような出口になっている。

 

出口を過ぎた先に設置されていた、こちらの看板。これは第二次世界大戦中末期に、右上の赤い矢印が”赤軍”と称されたソ連軍の侵攻の様子で、それに対してナチスドイツがどういったルートで第三帝国に退却していったかを示している。

1945年1月にはこの地を退去するナチスドイツが、ここにいた囚人約6万人を第三帝国に連れていく”死の行進”を行った。そしてその後、連れて行かれた囚人達の消息は分かっていない・・。

 

個人的にここの売店で売っていた書籍を買いたかったが、添乗員さんから「本は次のビルケナウでも売っているので、そちらで購入してください」との事でバスに早急に乗るよう急かされる。それとついでに両替もしたかったのだけど・・・。

 

次のビルケナウ収容所に向けて移動

このアウシュビッツ収容所からビルケナウ収容所まではバスで数分の距離にある。個人で訪れる観光客向けには無料のシャトルバスも用意されているようだ。

 

途中、高架の橋を渡ると下に線路が見える。映画「シンドラーのリスト」の中でも出てくるように、収容所内まで線路が続いていて、直接列車で連れて行かれて降ろされるのはさっきのアウシュビッツ収容所ではなく、これから向かうビルケナウ収容所なのである。

 

ビルケナウ収容所に向かう時の景色 動画

 

この続きはまた次回に。

↓↓↓↓ポーランド旅行記:初回↓↓

【ポーランド旅行記①2019】阪急交通社ツアー参加での周遊旅開始!
阪急交通社/トラピックスのツアーで訪れたポーランド旅行記の口コミブログ。まずはポーランドの国を簡単にお勉強!

【コメント欄】