鉄道引き込み線が印象的なビルケナウ収容所編-ポーランド旅行記-37

ポーランド旅行記:5日目

阪急交通社ツアー「おひとり様参加限定:決定版ポーランド8日間」にて–2019年11月–

その門の先に待ち受けるものは??

ここはポーランド南部にある、元オシフィエンチム市という場所。このポーランド語での地名よりもドイツ語での「アウシュビッツ」という地名の方が圧倒的に知名度がある。

第二次世界大戦中のナチスドイツ領地下で数十か所造られた強制収容所・絶滅収容所は数十か所に及ぶが、その中でも一番敷地が広大だったアウシュビッツ強制収容所跡が博物館として後世に渡って保存される事になる。

 

アウシュビッツ強制収容所Ⅰからバスでやって来た、アウシュビッツ強制収容所Ⅱと分類される「ビルケナウ収容所」の駐車場には1人だけこのようにパンを売っているオバサンがいた。そこそこ気温も低いので厚着をしていたね。。

 

ビルケナウ収容所に到着

こちらはアウシュビッツ強制収容所が手狭になったので、その周辺に造られた最も広大な強制収容所であったビルケナウ収容所。正面中央に見える建物は、その収容所への出入り口である。ただ出入り口とは言ってもここに連行されてきた人達は「ここを出るのは煙突からしかない」と看守に言われたそうだが。。

 

ビルケナウ収容所付近の景色 動画

 

このビルケナウ収容所は1941年秋にアウシュビッツ強制収容所Ⅰから約3km離れた、この場所にあったブジェジンガ村(ドイツ語:ビルケナウ)で住民約4,000人を強制退去させて175ヘクタールという広大な土地に300を超えるバラック(小屋)が建設されたのである。

 

そんな収容所としてナチスドイツで一番広大だったビルケナウ収容所では約10万人を、最大収容していたという。そして周辺には合計16kmに及ぶ、電気が流れる有刺鉄線の柵を造り、外部とは隔離された施設となった。

 

そしてこのビルケナウ収容所で一番印象的な場所が、この正面入口の鉄道の引き込み線である。映画「シンドラーのリスト」で後半、彼が買い取ったユダヤ人の女性達が間違ってこのビルケナウ収容所に連れて来られるシーンがある。

ちなみにその時は実際にこのビルケナウ収容所で撮影したのだが、内部では撮影が禁止だったのでこちら外側を収容所内部に見立てて撮影したそうだ。

 

このビルケナウは強制収容所ではなく、絶滅収容所であった。この違いはというと「強制収容所」は囚人を強制労働させる事が目的の場所で、「絶滅収容所」は連れてきた囚人達を虐殺する事が目的だった。

今までの収容所では近くまで列車で運んできて、そこからトラックや徒歩で施設に移動させていたが、ここビルケナウではこのように線路が施設内まで繋がっていたのが大きな特徴でもある。

 

多くのユダヤ人などを満載した列車が入っていくが、その列車が戻ってくる時はいつも空っぽだったようだ。

 

今ではこの線路は使われていないが、これも重要な保存すべきものなのである。建築家のオジサンがナイスアングルで写真を撮っていたので、ちょっと真似させてもらおう。

 

さっきのオジサンと同じ角度から写真を撮る。ちなみに2003年にドラマで放送されたリメイクの「白い巨塔」の中で、世界で初めてこのビルケナウ収容所の中で撮影されたのだとか。

 

ビルケナウの正面からの景色 動画

 

当時最も広大な収容所だったビルケナウ。正門の2階には監視搭があったけど、ここからは全て監視できない程に広大だった。

 

このビルケナウ収容所を建設する際にナチスドイツはソ連捕虜約1万人を動員したが、極寒の環境下で過酷な重労働の結果、半年後も生き残っていたソ連軍捕虜は僅かに2パーセント(約200人)しか居なかったという。。

 

入口の門からビルケナウ収容所内部を眺める。引き込みされている線路は施設内で数か所のランペ(降車ホーム)へ行くように枝分かれしているので見える。

 

ここ入口でさっきアウシュビッツでガイドしてくれた、日本語を喋れるポーランド人の現地ガイドさんの到着を待つ。彼はボクらのバスには乗り込まずに自分の車で来るって言っていたので、もうすぐ来るようだが。

 

300以上の収容小屋(バラック)が建てられた、このビルケナウ収容所ですが今現存しているのは45棟のレンガ造りと22棟の木造のものだけ。後は破壊されたり、燃やされたりして原形を留めていない。

またクレマトリウム(ガス室&焼却炉)も4個あったが、全て破壊されてしまっている。今回その見学は出来なかったが、爆破して破壊されたそのままの状態で保存されているようだ。

 

ビルケナウ収容所の中に入る

今日はクラクフでの現地ガイドさんであり、日本人の「弓子さん」とも合流済。元々日本に住んでいたが、ポーランドに来てから30年以上が経過しているとの事で難しいポーランドも流石にペラペラ流暢に喋っていた。

 

この入り口の門は、衝立が置かれていてここを通っての出入りは出来ないようになっている。

 

まずはビルケナウ収容所の右手に進んで行きます。ビルケナウ収容所は先程のアウシュビッツ強制収容所Ⅰとは違い、地面が舗装されていないので雨が降ったりすると足元が悪くなるので注意です。この時も前日に降った雨で水溜りが多数見受けられました。

 

ビルケナウ収容所内の景色 動画

 

入って線路の左手にはレンガ造りの建物が見える。こちらはビルケナウ建設時の最初の頃に造られた建物。しかしこの辺りは湿地帯に基礎無しで建てた為に、床が無く土を固めて作っただけなので雨が降ったりするとよく泥沼化していたそうだ。

 

奥に向かって伸びていく線路。この線路奥の横にガス室があり、列車で連れて来られてSSの医師に労働可能かを判別されて、労働不能と判定されたものは直接その建物に移送された。

 

さっき見学したアウシュビッツ強制収容所Ⅰではクレマトリウムは1つ、このビルケナウ収容所ではクレマトリウムが4つ導入されて、1日最大4,756の死体を焼却できるという報告書が見つかっている。しかしその後、効率が上がり最大1日約8,000体も処理できるようになったという。

 

そんな主にユダヤ人の死体を処理したのは”ゾンダーコマンド”と呼ばれた、被収容者から選ばれた人達(主にユダヤ人)の仕事。ビルケナウの最盛期には彼らゾンダーコマンドは904人(1944年8月)もいたという。

ゾンダーコマンドになると食糧や労働条件で特別待遇を受けれて、更にタバコ・酒・サラミなどの特別配布があったり、被収容者達とは隔離されて過ごしていたという。

 

ただそんな特別待遇があっても、同胞の無残な死体を一日中毎日扱う仕事では「自らの人格を廃棄し、想像を絶する絶望感を受け入れないとできない仕事」のようだった。彼らで戦争後に生き延びたとしてもナチス親衛隊の協力者と烙印を押されて、隠れるようにして生活しないといけなかったそうだ。

 

アウシュビッツ強制収容所での当時の景色2

ただその前にこのゾンダーコマンドもその大半は自分達もガス室送りになり、別のゾンダーコマンドにお世話になるのが殆どだったみたい。記録によると1942年10月から12月までの2ヶ月間、ゾンダーコマンドとして働いた班員300名全員がその後ガス室送りになって殺されたという。

 

そんな絶望的なゾンダーコマンドに属していたユダヤ人とかも、中には反乱を起こすものがいた。1944年10月7日にクレマトリウムⅣの施設内で武装蜂起を起こした。

鉄棒や斧やナイフなどでSS親衛隊に襲いかかり、親衛隊3人と「カポ」と呼ばれる古参囚人(被収容者を虐待する事で悪名が高かった。カールという名前で生きて焼却炉に放り込まれたという)1名が死亡。そしてクレマトリウムⅣ内の焼却炉8つを破壊したという。

しかし蜂起が行われたのはクレマトリウムⅣだけで、他のクレマトリウムに所属するゾンダーコマンドは反乱を起こせなかった。そしてユダヤ人ゾンダーコマンド250人と、その報復にランダムに選別されたユダヤ人200名も殺害される。ただその翌月、ソ連軍が迫りつつある悪化した戦局の中でヒムラー長官はガス室での殺害を中止させるのである。

 

木造バラックの見学

ビルケナウ収容所を入って右側に沢山見えるのは、このような平屋の木造バラック。この収容所に建てられた建物では一番数が多かったもの。

 

元々は馬小屋とかに使われていたものを改造したものもある。

 

この木造バラックは収容棟ではなく、洗面所とトイレだった場所。

 

ただ建物の造りとしては、こんな感じの質素なものばかりだったようだ。ロクな暖房施設も無かった為に、極寒時はマイナス20℃にもなるこの地方で凍え死ぬ人も多かったという。

 

奥にはトイレが見える。ただしトイレと言ってもこのような台に穴が空いているだけのもの。昔のローマ遺跡のトイレを思い出す形である。プライバシーもあったものではない。

 

映画「シンドラーのリスト」の中で、小さな少年が収容所内で隠れる時に、床下や壁の中が満員で仕方なしにこのようなトイレの蓋を開けて、その汚物まみれの中へ降りて隠れていくシーンがある。ただしそこでも沢山の子供達が隠れていて「ここは一杯だ。出ていけ!」と他の子供達に言われるシーンが脳裏にこびり付いている。

 

ほぼ家畜並の扱いを受けていた被収容者達。彼らに言わせれば「まだ生きていけるだけマシ・・」といった感じだったのかもしれない。。

 

ここは地面がレンガで舗装されていた。でも大半の木造バラックは地盤を土で固めただけのものだったようだ。

 

現代に生きる、戦争を体験した事の無い世代からすると「むごい扱いをするな・・・」と思うけど、実際に戦争を体験した人から見たら「戦争は命の奪い合いで、捕虜に構っている暇や労力なども無かった。生かせてもらえるだけマシ・・・」という感じなのかもしれない。

 

監視塔の見学に

ビルケナウ収容所内を簡単に見学し、次は入口まで戻って正面に見えていた監視塔に登っていきます。なお、ここは勝手に入ってはダメなようで、ちゃんとガイドさん同伴で出入りの際に設置されているカウンターで数をチェックしていました。

 

中は3階建てに相当する建物で、階段があります。

 

ここはそんなに急な階段ではないので、誰でも問題なく上がれると思います。

 

そして監視塔の上に着いて、そこからビルケナウ収容所内を見回す。奥に見える林辺りには焼却炉とかがあるんだけど、さすがにこの場所からは見れない。。

 

左手にはレンガ造りのバラックが建て並んでいるのが見える。

 

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所(Auschwitz-Birkenau)の昔の姿で立ち並ぶバラックが見える

その手前には土台だけが残って、建物は現存していないスペースがあるのもここからだとよく見える。

 

この監視塔の中はそんなに広くはない。会議とかする場所ではなく、文字通り監視をする為の場所だったようだ。

 

こちらは右手側の景色。こちらは木造バラックが広がっている。

 

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所(Auschwitz-Birkenau)の昔の姿

当時はもっと大量のバラックが所狭しと建てられていたのだろう。

 

こちらは髪の毛を切り落とされて、坊主になった被収容者の女性達。虎刈りの頭が無理やり髪をバリカンで切られた感じを表している。

 

この線路の右側へ伸びている先に、1車両だけ貨車が線路に置かれている。

 

このように約10万人も収容していたビルケナウでは、人で溢れかえっていたのだろう。

 

ここを訪れたのは11月中旬だったが、冬の積雪時に訪れるとまたここのイメージも変わるんだろうな。

 

監視塔からの景色 動画

 

このアウシュビッツ強制収容所(3つ含む)で、稼働全期間の合計収容者は約130万人にのぼったという。そして1945年1月末にソ連軍によって解放された時には約7,500人しか、ここに生き残りがいなかった。そしてすぐに彼らの手当てが行われた訳ではなく、その10日後に到着した赤十字が生存者数を調べた所、約4,800人にまで生存者は減少していたようだ。

 

多くの人命が裁かれた、魔のプラットホーム。

 

ナチスドイツの医師による判断で、ガス室送りになったのは全体の75パーセント前後にも上ったという。

 

こちらはこのビルケナウ収容所の全体図。クレマトリウム(ガス室と焼却炉)があったのは図の上の方である。

こんな様子はまた次回に続く。

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