アウシュビッツの施設内で色んな資料を見学する編-ポーランド旅行記-33

ポーランド旅行記:5日目
阪急交通社ツアー「おひとり様参加限定:決定版ポーランド8日間」にて–2019年11月–

目の前に突き出される真実

ここはポーランド南部にある元々はオシフィエンチム市だった場所。1940年にこの場所がナチスドイツ軍によって「アウシュビッツ」と改変され、その後ナチスドイツの領地内では最大の規模を誇る収容所となった。

 

第4棟の見学は続く

こちらの壁には哲学者であり詩人でもあった「ジョージ・サンタヤナ」の言葉が記されています。

“Those who do not remember past are condemned to repeat it”

「過去を覚えてない人はそれを繰り返して非難された」

 

実際に人々が収容されていた建物内にて。今ではベッドなどはなく、ガラ~~ンとした状態の室内。でも当時はここに溢れんばかりの人間が閉じ込められていたのである。

 

そんな人達が毎日見ていた、無機質な風景。毎日希望を胸に生きるも絶望しか目の前になかった日々。

 

こちらの地図を見るとこのアウシュビッツがナチスドイツの占領地の中では、中心地にあった事がよく分かる。引き込み線が伸びている箇所の都市から遠路はるばる被収容者は運ばれてきた。

中には2,000kmを超える遠方からも運ばれてきて、乗せられた列車で7~10日も掛かったそうだ。その間に食糧などの配布はなく、到着した時には餓死していた人もいたという。

 

この時期だったからか、窓から見える枯れた木が何とも言えない雰囲気を醸し出していた。

 

約130万人が収容されていた、このアウシュビッツ強制収容所。その大半であるユダヤ人が110万人、14~15万人のポーランド人、23,000人のジプシー(ロマ)、15,000人のソ連軍捕虜、その他25,000人。その130万人の内、実に110万人がここで殺害されたのである

1945年1月ソ連軍により解放された時にここで発見された生存者は約7,500人。ナチスドイツがアウシュビッツ強制収容所を手放す際に行進できる体力があったものは、ナチスドイツ奥地(ドイツもしくはオーストリア)へ一緒に連れて行かれた。なのでここで110万人が殺されているが、残り20万人の大半も犠牲になった可能性が高いのである。

 

ドイツ第三帝国(ナチスドイツ)の法務大臣であった「オットー・ゲオルク・ティーラック」(Otto Georg Thierack)の言葉。

 

“We must free the German nation of Poles, Russians, Jews and Gypsies”

「我々はドイツ国民をポーランド人・ロシア人・ユダヤ人、そしてジプシーから解放しないといけないのである」

 

こちらはこのアウシュビッツ強制収容所内で亡くなった人達の遺骨が収められている。ナチスドイツは最初の頃は死体を土に埋めていたが、途中から焼却するようになった。そして死体を焼却した後の骨は粉砕して、近くのビスワ川などに廃棄したのである。

 

ちなみに「JEW」はユダヤ人を表す英語。ホロコーストを題材にした映画「戦場のピアニスト」を字幕版で見ていると、主人公シュピルマンが隠れていた部屋の隣人女性に見つかった時に彼女が「He Is JEW」と叫んでいるのが分かる。

 

 

こちらは法律家でナチスドイツでポーランド総督を務めた、ハンス・ミハエル・フランク(Hans Michael Frank)の言葉。

“Jews Are A Race That Must Be Totally Exterminated”

「ユダヤ人は完全に根絶しなければならない人種である」

 

 

収容所に連れて来られた女性とその子供達。なお多くの子供達は労働力にはならないと判断され、大半が殺されるのであった。ユダヤ人は胸に六芒星のワッペンを付けているのが見える。

 

こちらには多くの書類も保管されています。こちらの施設に収容されていた人達の書類です。

 

ナチスドイツがこのアウシュビッツを引き払う時に、戦争犯罪の証拠に繋がる品々を焼却処分にしましたがそれでも大量にあり過ぎたので残っていた証拠の品。

 

多くの死亡通知書などが作られていたのだが、その殆どは短時間で死亡原因や死亡日時・時間を捏造されていたのである。ナチスドイツも無駄なこういった書類作成をしていたのである。

 

初期の頃は収容者のリストを作成し、三方向からの写真を撮って囚人番号を取っていたのだが後半は収容所に連れて来られた人の約75パーセントの人が、着いてからガス室に直行となったので殆どこういった書類は作成されなくなったようだ。

 

こちらの窓は開いていた。冬のポーランドは極寒になるようで、凍死する被収容者も多かった。

 

次から次へと展示品や生々しい写真が続きます。目の前で起こった事実にしっかりと対峙して、目を向けて行きましょう。

 

レジスタンスに参加していた容疑で捕らえられたポーランド人の囚人登録カードの1つ。

 

あんなナチスドイツでも書類の捏造があったという事も興味深い。書類の改ざん・捏造は世の常なのである。ただそういう事をする組織は例外なく、潰れる運命にあるだけなのだが。。

 

初期の頃はこのように到着した囚人を番号で登録していた書類もある。

 

アウシュビッツ強制収容所の見学は色んな言語を話す公認ガイドさんがいるので、多種多様な人々が訪れている。

 

こちらは死亡通知書。手書きの物があったり、タイプされたものがあったりと色々。

 

こちらは1941年9月26日にこのアウシュビッツ強制収容所に到着した囚人を登録した書類。5桁の囚人番号が振られているのが読める。

 

そんな書類に次々と目を通していく、ツアー参加者さん達。

 

ユダヤ人の中でもここに連れて来られた人数が一番多かったのがハンガリー系ユダヤ人。こちらの写真は1944年の春に撮影されたもの。この時期にハンガリー系ユダヤ人約43万人をアウシュビッツ強制収容所へ強制連行したのである。

 

彼らは”ヨーロッパ東部に移住させられる為の輸送”とナチスドイツに信じさせられていた。中には脱走した被収容者からの情報で「待っているのは死だけだ」と聞かされても、信じない人もいたようだ。

 

こちらはソ連捕虜から送られた手紙。なお、収容所内から送ろうとした手紙は全て検閲を受けて、殆ど出回る事はなかったそうだ。

 

こちらの日付は1945年1月17日となっていて、ナチスドイツがこのアウシュビッツを引き上げる準備をしている頃の収容者の点呼日誌のようだ。収容人数が多かった為にこの点呼作業が物凄い時間がかかり、普通で数時間、最長は1940年7月でなんと19時間にも及んだという。

 

強制移住させられた多くのユダヤ人達は、映画の中でもあったように現金ではなく小さな貴金属に財産を変えて持ち運んでいた。金歯を差したり、ダイヤをパンに包んで食べて胃の中に入れて隠し持とうとしていた。身の回りの品物やカバンとかは没収される事は承知の上だったのだろう。

 

こちらはナチスドイツによって、ユダヤ人と共に”根絶やしにすべき人種”とされていたジプシーが書いた手紙。人類の多様性を認めずに、自分達ドイツ民族だけが優れていると考えていたナチスドイツ。

 

大勢の人が集められたアウシュビッツ強制収容所。初期の頃は刑務所が満タンになった為に、収容できないポーランドの政治犯などを収容する施設として建設が始まった場所。

 

こちらには書類と共に写真も置かれている。

 

こちらの写真の人物はマキシミリアノ・マリア・コルベ(Maksymilian Maria Kolbe)という、カトリック教の神父。1930年代には日本にも来日した事があり、キリスト教の布教に尽力した。その後故郷ポーランドに帰った後に第二次世界大戦に巻き込まれてナチスドイツ軍に逮捕される。その後一旦釈放されるが、病院と化していた教会でキリスト教徒だけではなくユダヤ人の治療にも携わっていた為にナチス当局に再逮捕される。

そして1941年7月末に数名がアウシュビッツ強制収容所を脱走した。当時は脱獄した人数の数倍の人間に対して懲罰・見せしめの処刑が行われる事になっていた。それを受けて10数名ほどが”餓死刑”に選ばれるが、家族がいる人間の代わりに自ら代役を買って出た。そして狭い90cm四方の独房に4人が詰められて、一切食事や水が与えられない”餓死刑”に処せられた。その中で約2週間を生き抜いたらしいが最期は当時の安楽死とされていた心臓へのフェノール注射により息絶えたのである。

そんな彼の勇気ある身代わりの行動に「アウシュビッツの聖人」とも呼ばれ、その後カトリックで列福・列聖されるのである。そして身代わりとなって助かったポーランド人は奇跡的にアウシュビッツを生き抜き、亡くなるまで世界中でこのコルベ神父の成しえた功績を講演して回ったそうだ。

 

ここに収容されていた人達はナチスドイツからすれば囚人だった為に扱いも酷かった。ポーランドは秋でも寒いが冬はもっと寒くなるが、こんな収容棟は暖房施設など満足になかった。なので皆凍えながら、希望の感じられない毎日を過ごしていたのだろう。

 

左には名前、真ん中には収容者の生年月日が記載されている。もう75年も前の事で、その時の生き残り世代も殆どが亡くなってしまっている。しかし下記の記事のように未だに生存している方々のメッセージを知ると、その重みが計り切れないのが分かる。。

 

初期の頃の収容者は下にある3枚の写真のように、側面・正面・斜めと写真撮影もされていた。その後は左腕に収容者番号を刺青として入れられるのである。ちなみに刺青にして囚人番号を入れられたのは、ここアウシュビッツだけだという。

 

次から次へと色んな展示品に目を通していきます。

 

こちらはフランス系やチェコ系ユダヤ人女性の個人情報が記載された書類。

 

こちらは収容施設内で被収容者がアウシュビッツで亡くなった人間をメモして、残していた書類。

 

こちらは3号室、「THE ROAD OF DEATH」と入口に張られている。

 

列車に満杯になるまで押し詰められて、長時間輸送されて収容所に辿り着いた人々。

 

1944年春にハンガリー系ユダヤ人が大量に連れて来られた時の写真。この写真は列車の上に登って撮られたもののようだ。連れて来られた人々は一握りの希望を持って、身の回りの荷物も持って来ているがこの後全ての荷物を取り上げられるのである。

そして連れて来られた人々の内、約75パーセントが労働不能と判断されて収容される前にガス室送りになるのであった。

 

痛々しい現実の数々。ヨーロッパが遠い日本人からすると、遠くの事と思ってしまうのか?それともスマホを手にして簡単に写真を撮れる事を覚えた為か、ここでも写真をどんどん撮る日本人団体。それに比べてあまり写真を撮らない欧米人・・・という感じにも見える写真。

 

周囲に暮らしていたポーランド人の力も借りて、ユダヤ人のレジスタンスも攻勢を試みる。蜂起を試みて、ビルケナウでは焼却場を破壊する事に成功するものの、圧倒的な武力の差で一瞬で鎮圧されてしまったそうだ。そして団体責任という事で無作為な人々を抽出し、見せしめに処刑したのである。

 

列車から降ろされた人達は男性と女性にまず分けられた。その後医師の判断によって労働が可能かを判別されるのである。

 

こちらはそんな運ばれてくる列車内で”おしくらまんじゅう状態”になっている様子の模型も飾られている。

 

そんな人類の負の遺産を目に焼き付ける男。観光後に現地で日本語書籍5冊を購入し、帰国してからもホロコーストについての書籍を購入してガイドさんからの説明以上の事実を目の当たりにすると、今生きていれる事の有難さをより強く思うのであった。

 

これから訪れる自分の運命を知っているのか、知らないのか? ただこの列車に乗せられて、ここに辿り着いてしまった時点でもう既に運命は見えてしまっているのかもしれない。

 

こちらは男性の列で医師によって、労働可能か判断している時の写真。線路を渡って右側に並んでいる集団は労働不能とされてガス室送りになる集団だそうだ。勿論SS隊員たちは彼らにガス室送りとは言わなかった。もしそう言えばパニック状態になるので、体を洗うだけだと嘘を付いていたという。

この様子はまた次回に続きます。

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