ポーランド旅行記:5日目
阪急交通社ツアー「おひとり様参加限定:決定版ポーランド8日間」にて–2019年11月–
忘れられない人類の負の遺産
ポーランド旅行8日間ツアーも早や、後半の5日目に突入。今日の始まりも朝食からです。ここはポーランドの南部にあるクラクフの街にある「ノボテル クラクフ シティウェスト」(Novotel Krakow City West)ホテル。ノボテルという世界的なチェーンのホテルでしたが、想像以上に綺麗な内装のホテルでしたね。
まずは朝食を!
本日は”人類が20世紀に残した負の遺産”であるアウシュビッツ強制収容所の見学を午前中に行います。ポーランドのツアーだと大体アウシュビッツ強制収容所の見学が入っていると思いますが、その大半は①アウシュビッツ強制収容所の見学②各自でフリータイムの選択になっています。
というのも多くの人々が虐殺されたアウシュビッツ強制収容所は「辛過ぎて見たくない・・・」と思う人が要るようです。その為にフリータイムも選べて古都クラクフの街を自由散策できるようになっています。ボクらのツアーではこちら左側に写っている奥様だけが、アウシュビッツへは同行せず1人だけクラクフの街でのフリータイムを選ばれていました。
この「ノボテル クラクフ シティウェスト」ホテルでは連泊なので、朝食は2日間食べないといけないので野菜の充実度が重要。
ご覧のように野菜は色んな種類が沢山置かれていて、一安心です!
朝から焼き魚も置かれていたけど、基本ビュッフェでは魚類は食べない。
とりあえずソーセージ類やポテト、スクランブルエッグなどをチョイス。
野菜は別の小皿に山盛りで取ってくる。
ツアーでは日程の中間日位になってくると、だんだん参加者さん達と仲良くなってくる頃合い。特に朝の食事時などは、ゆったりは出来ないけどコミュニケーションを図れる大事な時間。人によっては仲良くなった人達と固まってテーブルに座ったりするけど、ここでは誰かが座っているテーブルの空き席を狙って座り、積極的にコミュニケーションを取る。ツアー参加者さんと話していると、第一印象で思っていた感じより全然違っていて、話せば話すほどに色んな一面なども知る事が出来て楽しい。
旅行前までは一切面識もなかった人達と約1週間程、団体行動を共にする。最初はみんな周りを警戒したりしているけど、旅の後半にはすっかりと仲良くなっている。特に1人旅限定参加のツアーだと、みんなが友達レベルになる。
これがこの1人旅限定参加旅をリピートする理由であり、醍醐味なのである。
アウシュビッツへ向けて移動する
この日はやや早い出発で朝7時30分前にホテルを出発する。アウシュビッツ強制収容所は入場料無料で学生などの社会見学でもよく訪れる場所なので、ポーランド国内では一番混み合う場所。そういった混雑時を避ける為に朝イチのタイミングを見計らって向かうのである。
ちなみにこのように空いている朝イチの時間を狙っていくのは日本人や韓国人が多いのだとか。逆にヨーロッパの人達は混雑する時間でも平気で午後から自分達のゆったりした都合に合わせて観光する事が多いのだとか。
アウシュビッツに向かうバスの車窓 動画
まだ朝早いので、遠くの方には朝モヤが見えている。
クラクフ郊外にもマクドナルドがあった。ちなみにクラクフの街からアウシュビッツまでは、バスで約1時間15~30分程かかるのでアウシュビッツを見学する人は大体クラクフの街に滞在しているとか。
さてそろそろアウシュビッツが近づいてきました。すると途中からは今では使われていないような線路が見えてきます。ひょっとしたらこの線路は収容所へ送る列車の線路だった所かな。。
こちらはアウシュビッツ強制収容所近くにあるバス停。ポーランドでも一番観光客が多い場所だけあって、路線バスも沢山運航されているようです。ちなみにここからビルケナウ強制収容所(アウシュビッツⅡ)までは無料のシャトルバスも運航しているようです。
このアウシュビッツ強制収容所とは総称で、このオシフィエンチム地区(元々のポーランド地名でここを改修してドイツ語のアウシュビッツと名付けられる)には強制収容所が3つも造られました。第二次世界大戦中にヨーロッパ地区で強制収容所として稼働していたのは40箇所を超えていたというが、その中でも敷地が最も広大だったアウシュビッツ強制収容所のⅠ&Ⅱが”負の遺産”として保存される事になるのである。
アウシュビッツ強制収容所に到着
こちらがアウシュビッツ強制収容所として、有名な場所の入口。そして今では観光客の入口になっているこの建物、かつて当時はここに到着した収容者もこの建物を通ってアウシュビッツに収監されたのである。
このアウシュビッツ強制収容所の見学は無料、というのも改修・修繕費用は寄付によってあてがわられている為である。なお寄付は下記の公式ホームページからでも出来る。
アウシュビッツ強制収容所の中にはトイレはないので、ここ入口の建物内にあるトイレで用を済ませます。ちなみにこちらのトイレ料は2ズローチ。
入口のこの建物内には両替所もあります。勿論日本円の取り扱いもしていて、こちらの”お坊ちゃま”オジサンは5000円をズローチに両替していました。後でこのオジサンに話を聞いたら「両替所の女の人、屈んだ時に胸の谷間が見えた~~!」と言って嬉しそうでした。
それを聞いてボクも両替に行こうとしましたが、添乗員さんから「予約の時間があるので、遅れないように集まってください!」と言われたので断念。。その後帰りのタイミングで行こうとしたけど、帰りは隣にあるビルケナウ強制収容所に直行したので結局両替できないままで終わりました。。
こちらは1944年に連合軍が上空から撮った、アウシュビッツ近郊の航空写真。元々はポーランドのこの場所オシフィエンチムにポーランド軍の兵舎などがあって、その建物を活用して収容所が造られたのである。
この場所は当時ナチスドイツが支配していた地区の丁度中心部であり、鉄道の要衝で輸送にも適していた。また周辺の地区は市街地から離れていて隔離されており、なおかつ拡張が可能であったのが理由でこの地が選ばれた。
他の観光地ではあまり思わなかったけど、このアウシュビッツだけはとても人が多かった。1994年に公開された映画「シンドラーのリスト」で一躍世界中の人に知れ渡ったホロコーストの事実。
1979年には世界遺産に登録されるが、全世界での知名度はあまり無かったがこのアカデミー作品賞を受賞したこの作品の影響により我々でも「アウシュビッツ」と聞けばホロコーストのイメージが出てくるのである。
また第二次世界大戦中もアウシュビッツ強制収容所を脱走した人が、ここで起こっている悲劇を連合国の参謀に伝えたものの救出軍を送るなどの動きは無かった。結局アウシュビッツが解放されたのはナチスドイツがこの施設を見放し、撤退した後だった。当時の連合国参謀も捕虜の救助よりもナチスドイツの軍備施設への攻撃を優先したのかもしれない。
この入口では荷物検査があります。また大きいカバンは施設内には持ち込めません。ちなみにボクは毎回手ぶらなので関係ないのですが。。
アウシュビッツ内では有料でガイドを雇えます。ガイドさんは当然有料ではありますが、施設の見学はただ見ているだけとガイドさんが説明してくれるだけでは施設の認識度が全然違います。
今回ボク達の現地ガイドをしてくれた男性は日本語を喋れる人でした(だけどあまり上手な日本語ではありませんでしたが・・)。ちなみにアウシュビッツには唯一外人として日本人で公認ガイドに認定されている中谷剛さんという方がいらっしゃいます。
日本人公認ガイドである中谷剛さんに個人的にガイドを頼むには、直接本人にメールするかアウシュビッツの公式HPにメールして問い合わせる方法があるようです。ただし中谷さんはとても多忙で問合せも多いので、3か月前位から問い合わせる必要がありそうです。
大手旅行社のツアーで行くとたまたま中谷剛さんに案内してもらったというパターンもあるらしいのですが、ボクらの時は日本語が喋れるポーランド人のガイドさんでした。アウシュビッツの公認ガイドで日本語が喋れるのは彼ら2人だけ。
ちなみにアウシュビッツ強制収容所(ビルケナウ)内を訪問している時に、途中で中谷剛さんを見かけました。その時は「COOL JAPAN 発掘!かっこいいニッポン」というNHKの番組で司会をしている鴻上尚史氏の個人ガイドをしていたのです。
だから中谷さんには気付かずに鴻上尚史氏に気付いたのですが、後で振り返ったら「あっ!あの時のガイドさんが中谷剛さんだ」と思い出した訳で。。
日本語を喋れる現地公認ガイドさんと合流します。この中では施設で貸し出すガイドレシーバーが各自に配られます。阪急交通社自前のガイドレシーバーだと、観光ツアーが多いアウシュビッツ内で混線してしまう可能性があるのでここを訪れる観光客団体は必ず現地のレシーバーを借ります。
アウシュビッツの見学スタート!
という事でアウシュビッツ強制収容所の敷地内に足を踏み入れます。1940年5月に開所したアウシュビッツ強制収容所、閉鎖というかソ連軍に解放されたのは1945年1月27日。
アウシュビッツに収容された総人数は約130万人とされ、その解放された時に生き残っていた生存者は約7,000人前後だったとか。
アウシュビッツ強制収容所の設立当時は20の建物があり、14棟が平屋で6棟が二階建てであった。その後収容人数拡大を受けて平屋は全て2階建てに改築し、新たに二階建てを8棟増設した。
これにより平均13,000~16,000人を収容できる施設になり、一時期には20,000人を超える収容人数を抱えていた。その為にベッドなどに収まり切れない人間は地下や屋根裏などに入り込まないといけない状況であったという。
緑の芝生の向こうに見える、煙突が付いた建物は厨房跡。一応食糧の配給はあったものの、被収容者の一日の摂取量は約1,300~1,500カロリーに過ぎなかったそうだ。朝は500ccのコーヒーと呼ばれるもの、昼は腐りかけの野菜で造った1リットルのスープ、夜は粘土みたいな黒パンと草を煎じたスープなど、食事とは言えないレベルであったようだ。
毎日の重労働と栄養の無い食事で衰弱して、死に至る被収容者も大勢いたようだ。
アウシュビッツ内の景色 動画
このアウシュビッツ出入口では、毎日被収容者から選ばれた楽団が収容所を出て労働に向かう被収容者達に音楽を奏でていた。労働への行き返り時には行進マーチを演奏し、行進を揃わして人数の確認をし易い作用もあったようだ。こちらの絵、上は朝労働に出発する時。
下の絵は労働を終えて帰って来る時のもので、労働中に死亡した者の亡骸も自分達で連れて帰らなければならなかった。こんな過酷な状況下で毎回彼らの演奏を聞いていた側からすると、皮肉とも受け取られ楽団メンバーは蔑まれた存在でもあった。
敷地に入って、右に曲がると収容所群があります。そしてその手前に見えてきた踏切のようなものが、収容所と外部を隔てる境界であり、被収容者が労働に出かける為に毎回通っていた場所。
有名な「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる・労働は自由への道)の看板。こちらはドイツ語で元々は19世紀後半にドイツ作家が作った小説のタイトルなんだとか。ちなみにこちらの看板、2009年に盗難に遭い、捻じ曲げられて切断された状態で見つかったようだ。それ以来、レプリカを飾っているとか。
触ると電流が走っていた有刺鉄線。映画「シンドラーのリスト」の中で「まだ感電死する方がマシ」というセリフがあったのを思い出す。。
収容所に連行された人間は強制的に過酷な労働を課せられた。そしてまともに労働できないと鞭打ち刑や銃殺といった事も日常茶飯事だったようだ。そしてそうやって労働中に死亡した者を輸送するのも彼らの仕事であった。
働けなくとどうなるかが、目の前で繰り広げられる日々。そういう日常に身を浸すと、肉体的な衰弱と共に精神も病んでいくのである。
こちらの看板は「働けば自由になる」という意味のドイツ語であるが、働けないと死が待ち受けるというものでもあった。。
見るに堪えない過酷な場所であった強制収容所。しかしここ公開している目的は”過去にあった人類の過ちを見過ごしてはいけない。そしてその過ちを繰り返してはいけない”という強い意向にある。誰でも目を瞑りたくなる状況であっても、これは事実として起きた事。それを受け止めて人類の明日に繋げていけなければいけないのである。
こちらはこの建物前で楽団が演奏している、実際の写真。アウシュビッツ内ではSS隊員(ナチス親衛隊)が撮った写真なども至る所で公開されている。
中には被収容者が隠れて撮影した写真なども出回っている。ここから脱走に成功した人も100名以上いた。そして彼らは反ナチス地下組織と合流し、世界中にナチスドイツがしている反社会的行動を全世界に伝えた。
1942年にポーランド人の外交官である「ヤン・カルスキー」という人物がロンドンに亡命していたポーランド亡命政権からの命を受け、自ら収容所やゲットー内に潜入して悲惨な状況を体験した。そしてその過酷な状況をしっかりと体で感じ取り、その後脱出してロンドンに帰還する。
このカルスキーの体を張った体験の報告はニューヨーク・タイムズやイギリスのタイムズに掲載されて反響を呼んだ。そして翌年カルスキーは渡米し当時のアメリカ大統領であるローズベルトや最高裁判事に面談しその惨状を説明した。しかし彼の伝えた事はポーランドの亡命政府による誇大情報であると扱われて、世界的にその事実は黙認されるのであった。
二階建てのバラック(小屋)が立ち並ぶ、アウシュビッツの敷地内。収容者の人数増加に合わせて、ここで監視業務をしていたSS隊員も初期は700人体制であったが最盛期には約8,000人体制に膨れ上がっていたという。
被収容者は一日約12時間の労働を強いられる。また通常の労働とは別に”ゾンダーコマンド”と呼ばれる死体の処理部隊や新しい被収容者の誘導や管理をする部隊にも彼らは使われるのである。SS隊員は殺すだけ、被収容者の誘導や管理、後始末は全部被収容者自体が行っていたようだ。
アウシュビッツ内の景色 動画2
収容棟にはそれぞれに番号が振られている。こちらは「15号棟」と呼ばれる建物で、それぞれの建物毎に違った内容の展示で戦争の背景などの内容になっているそうだ。大体の建物は見学できるが、中には見学出来ない建物もある。人体実験が行われていた「10号棟」はその悲惨な惨劇があったので、見学禁止の棟になっている。
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このアウシュビッツ強制収容所Ⅰが手狭になり、周辺の7つの村に立ち退きをさせて敷地を拡げた。そんな改築作業も全て被収容者の仕事、時には雪が吹雪く極寒の中でも作業をさせられる事も度々あったようだ。
1941年10月から第二アウシュビッツ強制収容所となる「ビルケナウ収容所」の建設が始まる。これの建築に駆り出されたのはソ連軍捕虜の10,000人。このビルケナウの建設は過酷な状況下であったようで、翌年の春までこの労働者であるソ連軍捕虜で生存した者は約2パーセントにしか過ぎなかったという。
建設が開始して、一ヶ月以内に半数が死亡、四ヶ月後には80パーセントが死亡、七か月後の5月には僅かに186名しか生存していなかったそうだ。
そんな過酷な状況下にあった強制収容所。そういった状況で比べると、まだ12時間の肉体労働を課せられても工場内で働けたのは幸せだったのかもしれない。
ナチスドイツは1941年のソ連に侵攻後は、人道的な国際法を無視して捕虜は家畜以下の扱いをするのである。ドイツ国内だけでは農業用の土地が不足するという考えでヨーロッパ諸国に攻めだしていったドイツ。
そしてナポレオンも征服できなかった大国ソ連に手を出して、激しい戦況が続きナチスドイツの首脳も火の車状態だったのだろう。
フランスの占領までは順調にいったかのように見えるナチスドイツ。しかし大国アメリカが本格的に戦争に乗り出してきて、ソ連侵攻も予想以上に進まなくて墓穴を掘るのであった。。
第4棟の見学
そしてまずはこちらにある第4棟の中に入って見学をします。まだ午前9時過ぎの早い時間にも関わらず、大勢の人達が見学に来ていましたね。
このアウシュビッツ強制収容所はイスラエルの学生の修学旅行先に組み込まれる事が多いらしく、実際にボクらが訪問した時もイスラエルから来たと見られる学生たちが見学に大勢来ていました。
まず第4棟の1階フロアに部屋に入ります。こちらはナチスドイツ支配下の領土内で中心地に位置する、このアウシュビッツ強制収容所へどこの都市から運ばれて来たかを表す地図が見えます。
こんな様子は次回に続きます。
↓↓↓↓ポーランド旅行記:初回↓↓
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