【チュニジア世界遺産紀行8日間】4日目
【1人参加旅ツアー・阪急交通社(トラピックス)】
入口の前で・・?!
キャピトル(神殿)からも石畳が続いています。
その道を南に下ると右側に何かの入口のようなフレームが見えてきます。
この辺りはメインストリートだったみたいで、この辺りはローマ人の住居が並んでいた地区のようだ。
現在はこの場所から神殿を見る事ができるが、その当時は建物が邪魔で見えてなかったかもね。
住居が並んでいたので、排水溝もあったようで上下水道をその時代でも完備していた様子。
皆そんな説明を聞きながら、早くあそこに見えているフレームの場所に行きたそうな感じに見える・・・。大体の人がガイドブックなどで事前に訪れる場所を調べてきているので、ガイドブック等に載っていた写真スポットで写真を撮りたいのである。
その大きなフレームがあるエリアは市場のようだ。
そのエリアに入り、奥からフレーム越しに神殿を見ると・・・・。
単なる扉があった場所にしては、大きなフレームだ。
説明板がありますが、全然読めませんので・・・。
ちなみに市場といってここは”奴隷市場”だったそうです。アフリカの原住民が捕らえられて、ここでローマ人に売りさばかれていたのでしょうか?!
建物の原形は殆ど残っていないけど、この入口の大きさだけでこの建物全体の大きさが想像できる。ちなみに世界で一番大きいフレームはドバイにある「ドバイフレーム」というもので2018年1月に完成し幅93m高さ150mという規格外の大きさになっています。
「さすがドバイ・・・」
左右にそれぞれ緑の芝生が植わっている場所に檻があって、奴隷が入れられていたそうな。。
そんな場所とは知らずに呑気に残骸に登って、ご機嫌な女の子。
その女の子が座っている石には文字が刻まれています。どういう意味があるのだろうか?!
こうやって内側から神殿の方向を見てみると、ガイドブックなどの写真で見た事のある構図になる。
それをバックに記念写真を撮ろうとしているツアー参加者も、他の人が入らない状況を待っているが次々と来る人が絶えない。。
ドゥッガ遺跡の様子 動画
ラテン語だろうか?でもこんなに大きくキレイに彫られている文字ってあまり拝む機会がないような・・。
この先も沢山の住居跡がズラ~~と並んでいる。
ドゥッガ遺跡の様子 動画2
周りに人が居てもお構いなしの男もここで記念撮影。「ナニ、シテルノ?コノヒト?!」って顔をしている子供達。。
ついでにもう一枚。所詮写真なんて自己満足なので、フレーム内に人が入ってようが、指が入ってようがお構いなし!
そう言いながらもガイドブックに載っているような感じで、撮影を試みる。オバちゃんの姿がポツンと勿体無い感じだが。。
そうして見守る中、やっと先程のオバちゃんが消えて次の人も来ずに、他人が入らない”フレームinキャピトル”の写真が撮れましたね!
こちらの下の方にも色んな住居跡が発見されている。
今となっては石で造られた土台だけしか残っていないが。。
やっぱりみんなが写真を撮るのはキャピトル中心。それは今でも昔も変わらないのであろう。
「奴隷」制度は昔からあり、ローマ時代は主流だった。しかし奴隷でも高給取りもいたらしく、ローマ時代初期は”高価な財産”として扱われたという。その後獲得領土が増えるにつれて奴隷の数も増していき、奴隷の価値が下がっていき鉱山などでの重労働を強制されるようになったりと労働環境も悪くなっていったそうだ。
今では奴隷という言葉なんて使う機会すらないが、当時はそれが普通だった時代。そういう時代を経て現代に繋がっているのである。無視できない事実であり、そういう過去があったのを受け止めるしかない。
ただ現代も形は違えど、ブラック企業に”奴隷化”されている人間もいるように思う。自分の自由は、自分で勝ち取らないといけない。
ただ現代と過去と違うのは、昔はいくら頑張っても奴隷は奴隷だった事。。哀しいね。
何も考えずにこういう場所を見て回るのもいいけど、そういった過去の虚しさや歴史などを振り返りつつその場を味わう気持ちで見てみるとまた違った感覚で見れる。そういった事の積み重ねで想像力が鍛えられる。
という事でガイドブックのような写真をもう一枚撮ってみました。
ただボクにはこの写真から色んな事を感じれます!?
とても保存状態のドゥッガ遺跡。
ここには貯水池・大浴場・闘技場・下水道なども完備されていて、当時の人々の技術力には驚かされる。映画「テルマエ・ロマエ」では過去のローマ人が現代にタイムスリップして、その技術に驚いて過去に持ち帰っていたが、逆に現代人も過去に行くとその技術力に驚いて現代にも活かせる事があるのではないか?とまで思ってしまう。
この辺りの邸宅からは床モザイクが見つかった所もあります。それらはバルドー博物館に移管されているようです。
ここは炊事用のかまどがあって、食事を造るスペースがあったキッチンだったのかな。
こちらの扉から出入りする住居だったようで、こう見ると現代人と背の高さはそほど変わりがなさそうだ。
その当時は木製の扉が入っていたのだろう。
大きい岩が積み重ねられている。何かの目印だったのかも。
遺跡で保存状態が良かったものって、だいたいが砂や土に埋もれていて発見されなかった事が多い気がする。人間らは自分達で造って、自分達で壊したりして好き勝手な生物だね。。
チュニジアってもっと”アフリカンなイメージ”があった国だけど、こうやって来てみると全然イメージが違った。
この辺りも馬車がガンガン走っていたのだろう。
小さい子供が遺跡内を無邪気に走り回っている。
この辺りも立派な住居があったみたい。
この説明板があるという事はこの辺も重要な場所かな?!
当時、これだけの住居に住めた人は特権階級の人だったのだろう。
地下室のようなものも備えていたのだろうか。
ディオニソスとユリシーズの家
道を挟んで反対側の下に広い敷地の住宅跡が見えます。
ここからは現存していたモザイクをバルドー博物館に移管している。そしてそのモザイクはバルドー博物館を代表するホメロスの叙情詩「オデュッセイア」の一部を描いている「オデュッセウスとレイレーン」である。
こちらのモザイクですね!
こんなモザイクを床に造らせたというだけで、この館の主の力が垣間見れる瞬間である。。
そういうのを見つつ進んで行きます。その様子はまた次回に!
↓↓↓↓チュニジア旅行記:初回↓↓
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