ポルトガル旅行記:5日目
阪急交通社ツアー「お1人様参加限定:決定版ポルトガル8日間」-2020年1月13~20日
ちょっと変わった感じの王宮内?
シントラの街にて
ここはポルトガル中部にある、シントラという昔の時代にポルトガル王国の王宮があった街。今では世界遺産にも登録された街で、リスボンにも近いので観光客が多く訪れる場所にもなっている。
高台の展望スポットにて
坂道を登っていたら「Best View」と文字が入っていた旗に誘われて、この場所にやって来ました。だけどベストと書かれていた割には、ちょっと物足りない景色。でも中央奥にあるシントラ王宮がほぼ横に見えます。もう少しで中央の突起物が2つが重なって1つに見える場所。
画面中央には緑に囲まれているように見える市庁舎。今登っている坂道のもっと上にある、ムーア人の要塞跡まで行ければもっとシントラの街を見下ろせる景色が見れただろう。。
ここはレストランの入口だったので、そんなお店にお客さんを呼び寄せる宣伝文句だったみたい・・・。
高台からシントラを見回した景色 動画
昼食のレストランを出た時は真っ黒い雲が見えていたけど、ここから見ると向こうの方に去っていったみたいに見える。
宣伝文句の割に微妙な景色であった、こちらのレストランの入口から見た景色でした。。
シントラ・ヴィラ地区を散策
絶景を期待していたけど、たったこれ位しか登った所で絶景が見れるとちょっぴりでも期待してしまった自分に喝を入れて、再び街を散策する。
可愛らしいデザインの雑貨などの商品が多かったポルトガルだけど、Tシャツとかはあまり生地がよくなかったので、結局買わずであった。。
ここシントラの街は、さっき訪れたオビドスの街とは違って壁は真っ白ではなく、ちょっとクリーム色や薄いブルー色などが塗られている。
ほんとに坂道が多いポルトガル。
普段あまり運動をしないボクには、こういった坂だらけの街は絶好の運動できるチャンスである!
店頭に吊るされているオブジェなどを見るだけで、その店のセンスが分かる。
同じ商品を扱っている店でも、その経営者というか担当者によって、それぞれの個性が店頭のデザインや店内のレイアウトにも出てくる。ただボケ~~っと見ているだけではなく、「どんな人がどういう事を考えて陳列しているか??」とかまで思いながら街歩きしていると、今までの倍以上は街歩きを楽しめると思う。
坂道を降りて最初の入口付近まで降りてきたら、前に同じツアー参加者さんの”山城新伍+元西武の監督:森祇晶を足して2で割ったようなオジサン”の姿が見える。手には何やら紙袋を持っているので、お土産を何か購入した模様。
最初に坂を登った時に見えた像を興味津々に見ている”山城新伍+元西武の監督:森祇晶を足して2で割ったようなオジサン”。ただ目線からして、像ではなく像が持っていたメニュー表を見ていたような。。
こちらはそんな坂道の入口付近にあった、今日のボクのトレーナーの色と一緒の黄色いタイルが外壁になっているお店。
こちらの中からもツアー参加者さんの奥様達が出てきて、「ここでお菓子売ってるわよ!」と教えてくれた。
たまにはこういった場所のテラス席で、のんびりと過ごしてみたい気がするけど、ツアーだと駆け足な日程になっているのでそういった事はほぼ不可能。ツアー内でのんびりとした時間を作れるとしたら、ホテルに帰った後の夜だけ。
こちらはシントラ王宮があるレプブリカ広場。ここが昼食を各自食べた後の集合場所である。
奥に見える山の上には、ムーア人の要塞跡が見えている。7世紀頃にイスラム系のムーア人(北アフリカに住んでいたベルベル人)が造った要塞で、アフォンソ1世により奪還されてその後に修復されたけど、山の上過ぎて不便だったのか結局廃墟と化してしまったという。
王宮の奥にはさっき高台からも見えていた市庁舎などが見える。このシントラの街の人口は約30,000人前後だとか。
レプブリカ広場からの景色 動画
今日は朝から天気がいいので、先程訪れたナザレやオビドス、そしてこのシントラの街も綺麗に見える。そう思うと晴天って凄く大事な事で、地球に感謝である。
先程坂道を登って、展望スポットから街の景色を眺めていた場所は、この写真のちょうど中央辺りに見える所。
ここで全員が集合場所に集まるのを待っていたら、他にも同じ阪急交通社のツアー団体と遭遇。その団体さんもこれからシントラ王宮の見学をするみたい。
ツアーで海外旅行している時に気を抜いていたら「間違って別の日本人団体ツアーに付いて行ってしまいそうになる・・・」というアルアル話もあるので気を付けましょう!
太陽様が大きな顔を見せてくれています。
太陽様に感謝する日々でございます!
王宮の見学前にトイレに行っておく事にする。添乗員さんから、この広場下に無料の公衆トイレがあるとの事で向かう。本当に無料か、半信半疑だったけど本当に無料で使えました。
それにしてもヨーロッパ人はテラス席が大好きである。前を通る車の排気ガスや撒き上がる埃とかは全然気にしていないんだろう。。
シントラの街の中心部にあるロータリー。日本ではあまり見かけないロータリーだけど、海外に行くとよく見かける。信号が不要で曲がれるし、ロータリーに入ってくる車が必然的にスピードを落とすので、事故になりにくいという優れもの。
このシントラの街では見かける機会がないな・・・と思っていた世界遺産マークが、こちらの建物の壁に入っていた。こんな普通の建物の壁にこのマークが描かれているとは珍しい光景。。
シントラ王宮の見学開始
こちらは王宮見学時の注意事項。フラッシュ撮影や三脚での撮影はNG、勿論ノーフラッシュであれば撮影は可能。それとリュックサックは後ろではなく、前に担ぐ必要がある。リュックを後ろに背負っていると、誤って置かれているものにぶつけてしまう恐れがあるから。
さてポルトガルの王宮はどんな感じになっているのか、楽しみな瞬間です。このシントラ王宮は15世紀からポルトガルの君主政治が終わる20世紀初頭まで、当時の国王達の居城であった。そして共和政治となった1910年にこの王宮は国の文化財となるのである。
元々はイスラム教徒の居城であったが、その後15~16世紀に大規模な増改築が行われたシントラ王宮。しかし1755年に起こったリスボン大地震の影響で、リスボンに近いこの王宮も大きな損傷を受けるのである。
まずは階段を登って2階へと進んで行きます。
そしてこのシントラ王宮だけの案内で、現地ガイドさんが付きます。ただし日本語は話せずに英語だけですが。。
こちらはこれから観光する、このシントラ王宮のミニチュア。こうやって見ると、いびつな感じに造られているのが分かるけど、それだけ増改築を繰り返してきた建物という感じに見える。
それにしてもやっぱり外観で目立つのは、この中央にある2つの突起物。
さてミニチュアで王宮の全体像をイメージした後は、早速中に進んで行きます。
”白鳥の間”から見学
最初に通された部屋は”白鳥の間(Swan’s Room)”と呼ばれる部屋で、この宮殿内で一番広い部屋だそうだ。ここが”白鳥の間”と呼ばれる理由は、天井を見れば分かるのである。
天井にはご覧のように、この部屋の名前にもなっている27羽の白鳥が描かれている。似たような白鳥の絵だけど、それぞれパターンが違うそうだ。アヒルは番い(つがい:夫婦)になると生涯を共にするという事で、”オレは浮気をしないよ!”というメッセージが込められている天井画かもしれない。
ただし白鳥は番い(つがい)になると長い間同じ相手と共に時間を過ごすが、必ずしも一生同じ相手と添い遂げる訳ではないという・・・
窓からは噴水のプールがあるようにも見える。
どちらかというとイスラムチックな装飾の建物にも見えなくもない。元々はイスラム教徒の建物だったけど、その時代の箇所は現在では殆ど現存していないそうだ。
白鳥の間を照らすシャンデリア。昔は全部ロウソクを差していて、それぞれに火を灯していたのだろう。それに比べると今はとても快適な時代になったもんだ。
それとこの白鳥の間には、なんと約400年前に日本人が訪れた事もあるという。それは1582年に九州地方のキリシタン大名:大友宗麟などの名代(みょうだい:代表)として、ローマへ派遣された天正遣欧少年使節のメンバーである。
彼らは1584年8月にこのシントラの地へ入り、アルベルト・アウストリア枢機卿に招かれたのがこの部屋だったという。
こちらはそんな天正遣欧少年使節のメンバーが、1585年3月にローマ教皇グレゴリウス13世と謁見した時の絵だそうだ。戦国時代真っ最中だったので、この日本人メンバーは当然の如くちょんまげ姿であったのだ。
シントラの街にはクリーム色の外壁をした建物が多い。確か、この窓から見えるクリーム色の建物は近くまで行ったような気がするけど。。
ここでは来賓を招いて、当時の国王などが来賓を接見していた場所。ここでも先程の別の阪急交通社団体と遭遇。色は違うけど同じ阪急交通社のバッジを付けている団体なので、間違ってコッチの団体に入ってきた人も居ましたね。。
この奥に2つの突起物が見えている。もう少しでこの建造物が何かが判明するのである。
白鳥の首には金飾りが全部に付けられている。こちらは王族の人間は浮気しないという主張をしていたのかもしれない。
こちらの間に肖像画が飾られていた人物は、ポルトガル国王:ジョアン4世の娘であるキャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)である。スペインから独立した当時の国王ジョアン4世は、不安だった情勢を安定化させる為に当時のイギリスと同盟を組もうとしていた。
そこに娘キャサリンが生まれて(1638年)、ジョアン4世は生まれて直ぐの2歳の時にイギリスのチャールズ2世(キャサリンより8歳上)と婚約を結ばせたという。しかし実際にキャサリンが結婚したのは1662年で24歳の時である。そんな娘の結婚生活が幸せになる事を思ってジョアン4世が造らせたのが、この部屋だったそうだ。
政治の道具にしながらも、結局親は死ぬ程に娘が大好きだったのであろう。そんな娘への愛情が込められた”白鳥の間”であった。
こんな旅はまた次回に続きます!
↓↓↓↓ポルトガル旅行記:初回↓↓
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