バルト三国旅行記:3日目
阪急交通社ツアー「バルト3国周遊 8日間」-2019年12月17~24日
春は綺麗に桜が咲くハズ
ここはバルト三国でも一番南に位置するリトアニアという国の首都ヴィリニュスの街。ここは歴史遺産として世界遺産にも登録されている街です。
ヴィリニュスの街にて
左側に見えるのは街のシンボル的な存在のヴィリニウス大聖堂。その左側に見える塔は鐘楼が釣られている塔である。
そしてその先の小高い丘というか、小さい山の上に見えるのは「ゲディミナス城」。13世紀に建てられて16世紀頃には周囲にも色々な建物が建設されたけど、今では全て建て壊されてしまっている。ちなみに塔の上は展望台になっていて、この付近の景色を見下ろす事が出来るようだ。
そして観光前にまずは公衆トイレに向かいます。街中のこのトイレは有料で、確か30セントだったと思う。
走っている車はヨーロッパ系が多いけど、日本車もそこそこ見る事が出来た。
結構泥で汚れた車が目立つ、リトアニア。海外は日本とは違って、あまり洗車する文化はないようだ。逆に日本みたいに綺麗綺麗に洗車するのを見たら、貴重な水の無駄遣いだと思われるかもしれない。
こちらは天然の大木を利用したベンチ。内側が空洞部になっている部分もあって、何とも言えない雰囲気を醸し出している。
こちら側には旧市街地が広がる。ちなみにこれから向かう昼食のレストランはこの先に行った所にある。
またヴィリニュスの旧市街地にはあまり城壁らしきものが見当たらない。これもタリンやリガとの違いみたい。
ヴィリニュスの街並み 動画
午前中はほぼバスの中だったので、今日も殆ど動かずでまた昼食となる。こういう時はあまりカロリーを消費していないにも関わらずの食べ過ぎには注意が必要である。
旧市街地の通りにはお洒落な感じの外観のお店が並ぶ。
綺麗なヴィリニュスの街並み。
こちらの雑貨店みたいなお店は、店の前に面白いものが沢山置かれていて、思わず店の中身が見てみたくなる程だったけど残念ながら寄る時間は無し・・・。
ヴィリニュスの街には路面電車はないけど、その代わりにトロリーバスの路線は充実しているという。そして地下鉄もまだないけど、地下鉄化の構想はあるようだ。
レトロで綺麗な街並みに、どこからか音楽も聞こえてくる。
そんな音楽を発していたのは、こちらの街頭でアコーディオンを持って演奏していたオジサン。そんな演奏しているオジサンに何気なしにチップを入れていた”自称エロ坊主オジサン”。「こう見えてもオレ、元中学校の社会科の教師やったんスヨ!」と言っていて、一応まともな社会人だったそうだ。
ただ破天荒な自由人でもあり、金曜日に授業を終えて学校を出るとそのまま港に向かい、そこから船で韓国へ行き、月曜日の朝に北九州に着いて家にも帰らずにそのまま学校に出勤したりしていたという超行動派なオジサンでした。
そんな様子などを見ていたら目の前から「あっ、他のツアー参加者さん達が消えた・・・」と思っていたら・・・
右側にレストランがあって、そこに皆入って行っていただけでした・・・
昼食レストランにて
こちらのお店は「フライデーズ」という、古き良きアメリカンを再現している世界チェーンのレストランのようだ。
住所:Pilies g. 11, Vilnius 01123
そんなアメリカンな雰囲気のチェーン店とは全然知らなかったけど、店内を見てみるとアメリカンな雑貨ばかりが飾られているお店だった。
いきなり出てきたのはトマトの濃厚なスープ。
この辺り、東ヨーロッパ付近にはこのような温かいスープが何とも美味しい。体に優しいイメージと共に温もりもくれるような感じで。
こちらのビールは4ユーロ、ただしビールの銘柄は不明。まあそこまで拘りもないけどね。。
店員のお姉さんはタトゥーを入れていたり、鼻ピアスもあったりと結構見た目がファンキー。グイグイ系の”自称エロ坊主オジサン”はそんな見た目がイカついウエイトレスさんにもめげずに「プリティー♡」と言って、コミュニケーションを積極的に行っていた。
こういう所は是非見習うべき所である!
こちらが本日昼食のメイン料理で「ツェペリナイ」と呼ばれて、リトアニアの伝統料理のひとつ。お団子みたいな外側の生地を作るのが手間なようで、擦り下ろしたジャガイモとその際に出るでんぷんとマッシュポテトを合わせて作る工程が大変ならしい・・・。
ちなみにこの料理の名前はその形が第一次世界大戦中にドイツ軍が量産した飛行船ツェッペリン号に似ていた為に、そこから来ているという。ちなみに『インディージョーンズ3/最後の聖戦』でインディーがパパさんとドイツ人だらけの中にこっそり乗り込む飛行船ですね。
添乗員さんからは「ジャガイモのお餅です!」と聞かされていたので、確かにモチモチとしている触感。
お皿を振るとプルプルッて揺れます!
中には肉のミンチが入っていて、濃厚なソースをたっぷりと絡めて食べるととても美味しい。そしてたった2個の料理だったけどお腹にたまるようで充分これだけでお腹いっぱいになった。
ここは食後にデザートが付いていないので、中にチーズが入っているチョコレートを配る添乗員さん。こちらリトアニアでは人気のお菓子らしく、ただし要冷蔵品なので残念ながらお持ち帰りは出来ない。
これと共に蜂蜜から作られた蜂蜜酒(ミード・リキュール)もサービスで飲ませてくれた。またこのお酒がとても美味しくて、是非買いたかったけど、夜のスーパーでは時間が遅いとアルコールを売ってくれないので残念ながら購入は出来ず・・・
リトアニア名物蜂蜜酒 動画
食後はヴィリニュスの観光開始
美味しいジャガイモ餅と美味しい蜂蜜酒を飲んで、いい感じにほろ酔い気分になった後はヴィリニュスの街の観光が始まります。レストランの前で可愛らしい帽子を被って立っているオバサンはここの現地ガイドさん。
添乗員さんの代わりにおでんの旗を持って、先頭を歩く現地ガイドさん。ただ途中で旗が絡まっちゃった・・。
今日は雨は降っていないものの、曇り空。なかなかこの時期は快晴になる事は少ないみたい。
まあ雨が降らないだけマシだとしておこう。今日の気温は最高が4℃と、それなりに寒い。事前に寒いのが分かっていれば前もって着込む事が出来るので、対策は可能。昨日のリガでの街歩き時が寒かったので、今日はその反省を活かして、3枚から4枚の重ね着に変更したので全然寒くは感じなかった。
これはベツヘレムでイエスキリストが生を受けたとされる、小屋での一場面を再現したオブジェ。正直そんなに見るべきものではなかった・・・。
こちらは鐘楼とツリーがちょうど見える場所に「VILNUS」の光るオブジェが置かれている。ただ日中よりかは夜の方がライトアップされているので、もっと綺麗に見えるので写真撮影は夜の方がオススメである。
急に人が増えたと思ったら、地元小学生の社会見学のような団体が鉢合わせしたから。
ここからヴィリニュスの街を観光・・・と思いきや、すぐさまバスに乗り込み移動する。どうもヴィリニュスの街は後程観光するみたい。
まずはリトアニアのヴィリニュスを訪れる日本人が必ず行くとされている場所に、まずは向かうとの事。
杉原千畝:桜公園にて
こちらのネリス川沿いにある、緑地公園がその目的地。ここには日本人にも馴染みのある桜の木が沢山植えられている。
ここには「日本のシンドラー」とも呼ばれる、元外交官の杉原千畝氏の生誕100周年を記念して出身校である早稲田大学によって、記念碑と桜が設置されているのである。
第二次大戦中にナチスドイツによるホロコーストの虐殺対象となった、多くのポーランド系ユダヤ人。国をナチスドイツに占領されて、迫害から逃げる為に右往左往していた。何とかポーランドを脱出したユダヤ人達はリトアニアに辿り着くが、じきに自分達も拘束されるのは目に見えていた。
そこで彼らはアメリカ大陸かオーストラリアへの脱出を試みるが、ソ連国内を通るには日本行きのビザが無いと通れないのであった。
そこで彼らユダヤ人は当時リトアニアの首都になっていたカウナスにあった日本総領事に押しかけ、当時副領事として赴任していた杉原千畝の元に日本行きのビザを発給してくれるよう懇願した。あまりにも大勢の人々が押しかけてきたので、それを重く受け止めた杉原は日本外務省に彼らへのビザ発行の許可を打診する。
しかしその返事は日本を経由して訪問する第三国への入国手続きを完了したという証と、それに付随する渡航費用を充分に有した者のみ認めるとあった。
しかし命からがら逃げ惑う人達がそんなのを用意できるハズが無かった。現地の危機感を外務省に再三伝えるものの、彼らの態度は変わる事が無かった。
それでも毎日、日本総領事前には大勢のユダヤ人が押し寄せて、助けを求めにくる。そんな彼らの命からの懇願を断り切れずに、杉原は日本政府に盾付いて独断の判断でパスポートを持つ者にはビザを発給する事に決めたのである。
ここを訪れたのは12月だったので、当然この時期ではまだ桜は全然咲きもしない時期。だけど春になれば、綺麗な景色が広がるという。
外務省の記録では約2,200枚のビザが杉原によって発行された。中には家族全員で1つのビザを発給された場合もあるので、そのビザによって脱出できたユダヤ人は総勢6,000人以上と推測されている。彼らはそのビザを握りしめてシベリア鉄道で10日以上かけて極東ウラジオストックに移動し、そこから日本の福井に渡った。
そんな福井ではほぼ一文無しでやって来たユダヤ人達に対して、施しを行った人達も大勢いて、彼らの協力もありそこからアメリカ大陸やオーストラリアなどに散っていったという。中には上海にも移った人が居て、上海はアジアの中でも一番大きいユダヤ人街が出来ている。日本にも神戸にユダヤ人があり、一部の人はそこに住み着いた。
「杉原ビザは今も生きている」
こう評される杉原千畝の功績は、意外と日本では知られていない。あくまで”日本のシンドラー”としか呼ばれない程度である。というのも日本の外務省からすれば、彼は指示を無視し独断で行動した反逆者であった為に戦後、事実上の解任をさせられる。その後彼は日の当たる表舞台に出る事は殆どなかったが、杉原ビザによって生き延びたユダヤ人達が命の恩人である彼の事を探し回った。
こちらは日本の広島にあった被原爆石が設置されている。
生き残ったユダヤ人が「杉原センポー」という人物を探していると外務省に問い合わせたが、外務省からの答えは「そんな人物はいない」という一方的な回答のみであった。ちなみにセンポーとは千畝(チウネ)が外国人には発音が難しい為に、音読みで「センポウ」と彼らに自己紹介していたのだ。それでも自分達の命を救ってくれた恩人を探し求める、強い信念が通じて彼らは杉原千畝本人と再会する。
ユダヤ人の執念で杉原千畝と奇跡の再会を果たすが、その時彼らは驚愕の事実を知らされたという。ユダヤ人達はてっきり日本政府の判断でビザを発給したものだと思っていたが、杉原の口からは「日本政府は反対だったけど、自分の首覚悟でビザを独断で発行した」と聞かされたのだ。ユダヤ人達にとっては自分達の命を繋ぐビザだったけど、杉原本人も命懸けでビザを発給していたのだ。
そんな彼の功績が認められて1985年にイスラエル政府より「諸国民の中の正義の人」として認められて、日本人としては初めてのヤド・ヴァシェム賞を受賞する。そして杉原に対しての冷遇を認めていなかった日本政府も、過去の過ちを認めて2000年に当時外務大臣の河野洋平氏により行われた演説により、日本政府として公式の名誉回復がなされたのである。
こちらの記念碑にはその杉原が発給したビザの複製が飾られている。彼はその多くを手書きで記入していたので、腱鞘炎になりながらも次々に押し寄せる、ビザを求めるユダヤ人達に対してビザを発給し続けたのである。
こういった素晴らしい事実が遥か日本から離れたヨーロッパで行われていた訳だが、日本国民の認知度はとても少ない。だからこそリトアニアを訪れた日本人が杉原千畝氏の功績に感慨を受け、その行った事実を日本国内に広める必要があると思う。
こんな旅はまた次回に続きます!
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