発見のモニュメントにかつてポルトガル王国全盛期だった時代の面影を想い偲ぶ-ポルトガル旅行記53

ポルトガル旅行記:6日目
阪急交通社ツアー「お1人様参加限定:決定版ポルトガル8日間」-2020年1月13~20日

大航海時代の英雄たち

ここはリスボン市内にある、テージョ川沿いの発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)がある広場です。

 

発見のモニュメントにて

そんな大きなモニュメントの前にある広場の地面には、大航海時代にポルトガルが何年にそれぞれの国に辿り着いたかという数字も記載されている大きな世界地図があります。そんな世界地図を見ながら説明してくれているのは、現地ガイドさんではなく、現地案内人であるこちらの日本人女性。

この日本人女性とは別に、現地ガイドさんであるポルトガル人女性も我々に同行しています。恐らく現地ガイドはポルトガル人しかライセンスを取れないのか、それとも日本人の方が説明が分かり易いので別にこの案内人さんが付けられているのか?

 

そんな世界地図に対して円を描くように並ぶツアー参加者達。ただし世界地図が描かれている方向が悪く、この時間帯だとツアー参加者達の影が世界地図に被って、見にくくなっています・・・。

 

大航海時代前はインド地方からの交易品である香辛料を、イスラム勢力のトップであったオスマン・トルコ帝国が支配していて、ヨーロッパ地方には高い手数料を取った上でベネチア商人とだけ取引していた。そんな独占市場であったインド地方の香辛料取引に、風穴を開ける為に大西洋に繰り出しアフリカ大陸の喜望峰経由でインド航路の開拓を目指したのである。

 

発見のモニュメントの反対側には、先程外観だけ見学をしたジェロニモス修道院が見えている。ここからは歩きで行ける距離にある。

 

こちらが”発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)”である。元々は1940年にリスボンで開催された「ポルトガル世界博」の催し物として造られたのである。1143年のポルトガル王国誕生1640年の当時統治下にあったスペインからの独立と、1940年当時独裁政権を築いていたサラザール首相が自分の栄誉を全世界に示したいという意図があり、開催された世界博であったという。

 

モニュメント付近の景色 動画

 

しかしそんなリスボンの1940年に開かれた世界博は、前年に勃発した第二次世界大戦の影響で、海外からの訪問客数が予想を大幅に下回る結果となったのである。

 

昔1940年に造られた当時の発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)-2

こちらが1940年当時に造られた発見のモニュメント。世界博の後、不要なモニュメントとなったのでその後取り壊す事になる。

 

 

その後、エンリケ航海王子の没後500周年に合わせた1960年に、コンクリート製になって再建されたモニュメント。ただ1940年当時に造られた内容とほぼ一緒みたいで、こちらはモニュメントの東側で総勢16人の大航海時代に貢献した人物の像が飾られている。

 

像のそれぞれの人物を知りたければ、下記ウィキペディアに像のモデルとなった人物の説明があります!

 

この発見のモニュメントは大航海時代に主力の船舶であった、3本マストを装備していた”キャラベル船(Caravel)”をモチーフにした形で造られている。

 

そんな像の先頭に立つのはエンリケ航海王子で実際には航海に出なかったが、北アフリカのセウタ攻略を行い、大航海時代の礎を作った人物である。

 

 

モニュメント東側の景色 動画

 

そして日本人でも知っている有名な人物である、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は左から3人目。南アフリカの喜望峰経由でインド航路を開拓し、約1年の航海期間を経てポルトガルに香辛料を持ち帰った。そしてヴァスコ・ダ・ガマの開拓したインド航路で、それまでオスマン・トルコ帝国が独占していた香辛料を直に入手する事に成功し、その香辛料をヨーロッパで転売し莫大な富がポルトガル王国にもたらされる事になる。

 


作成中の航海エンリケ王子の像

ちなみにこの大航海時代の英雄の像は小さく見えるけど、実際はこのようにとても大きいのである。

これだけ近くに寄る事が出来れば、嬉しかったんだけどね・・・

 

大航海時代の人物たち 発見のモニュメント作成途中-2

先頭に立つエンリケ航海王子の像は何と高さが9mもあるという・・・。ちなみにエンリケ航海王子が右手に持っている小さな船は、モニュメントのモチーフにもなっているキャラベル船である。

 


 

ポルトガル王国の繁栄と見果てぬ大陸を求めて、多くの航海士がこの方向に向かって旅立っていった。バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias de Novais)が初めて、1488年5月にアフリカ大陸最南西端である「喜望峰(Cabo da Boa Esperança)」を発見する。

 

しかしディアスはその航海時に強い風に苦しめられたので、この岬を「嵐の岬(Cabo des Tormentas)」と名付けた。アフォンソ5世の息子である当時ポルトガル国王だったジョアン2世(João Ⅱ)は、ディアスの報告を受けインド航路をほぼ確定的に発見できたと考え、明るい未来を見据えて喜望峰と名付けたのである。

ちなみにこのジョアン2世は、コロンブスの大西洋横断インド航路開拓の資金援助の提供を見合わせた時の国王でもある。

 

発見のモニュメントに飾られるバルトロメウ・ディアスの像

そしてバルトロメウ・ディアスは、こちら東側のモニュメントで右側から6番目に設置されている。このディアスはインド航路を目指して出発するヴァスコ・ダ・ガマの船団にも同行し、喜望峰まで到達した経験を活かして途中まで彼の船団を誘導する役割を行ったという。

 

 

発見のモニュメントに飾られるフランシスコ・ザビエル

そして日本人なら絶対知っている、ポルトガル人といえば「フランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier)」でそんな彼もこの像の中に入っているのである。我々日本人の知っているザビエルは禿げた頭のイメージが大きいけど、インドやアジアなどでキリスト教の布教を行い、最も多くの人々をキリスト教に導いた人物とされ崇拝されているのである。

 

大航海時代が始まった16世紀に、プロテスタント派の台頭でローマカトリック勢力が弱まる事を危惧した当時のローマ教皇は、インドを目指す船にカトリックの宣教師も同行させて、新しい大陸でのカトリック信者を増やす計画を立てる。そしてカトリックへの信仰心が強いポルトガルとスペインの両国を積極的に支援したのである。

 

当時の遠方への航海は危険と隣り合わせでもあった。ヴァスコ・ダ・ガマが約1年掛けて航海した時も出発時の乗組員の内、無事帰ってきたのは出発時の約1/3しか居なかったという。

だが新大陸の発見は、それを発見した者には莫大なお金と名誉を得られる事もあり、続々と”欲に満ち溢れた”人々が大海原に繰り出して行ったのである。

 

ヨーロッパ人からの立場からすれば大航海時代に色んな物を得れた喜ばしい出来事であるが、彼らが訪れた場所の人々の立場に立つと、そんな航海はまさに侵略・奪略行為であった。

 

ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ大陸沿いに航海していったので、こちら中央に写っているマダガスカル島には寄らずにインドに向かった。

 

ヨーロッパ人としては最初にこれらインド地方やアジア諸国に到達し、色んな国を侵略・支配した。しかしその後の政権が不安定になり、更に17世紀に入ると周辺国オランダやイギリスとの争いの末にアジア諸国を次々と手放していき、植民地のメインはブラジルしか残らなくなるのであった。

 

インド航路を開拓した後は、更に東南アジアまで進出してきたポルトガル。その背景には航海術の向上と船の巡航能力拡大にも支えられ、香辛料取引で得た莫大な資金を更に航海に投資したのである。

 

アジア地方で一番ポルトガルの植民地として、知名度が高いのはマカオである。今は中国に返還された後だが、カジノを軸とした事業で今でも大きな収入を上げているイメージがある場所だ。

そして日本では1549年にキリスト教の布教を目的にしたイエスズ会のザビエルが訪れ、当時約2000万人の人口がいたと考えられている日本で約70万人をキリスト教徒に入信させたという。特に九州では土地を収める大名までキリスト教徒となり、彼らはキリシタン大名と呼ばれる事になる。

 

しかし日本でのキリスト教の布教活動は、1587年秀吉が発動した”バテレン追放令”で活動が限定される。そして1596年に日本に漂流したサン=フェリペ号に乗っていたスペイン人から「キリスト教の布教は、その地域征服の前段階である」というような内容の話を聞いて、秀吉は激怒し日本に居たキリスト教徒を殺害するのである。

 

この時に殺害されたキリスト教徒が今回ポルトの街を訪れた際に見学した聖フランシスコ教会内で、金色の彫刻が飾られていた”日本二十六聖人殉教”である。

 

こちらにはエンリケ航海王子が亡くなった1460年から500年後の1960年を記念して、この発見のモニュメントが再建されたと文字が入っている。なお、この階段を登って建物内に入ると有料ではあるが上の展望台に昇る事が出来るという。

 

 

昔建設中の発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)

こちらは再建中の発見のモニュメントの写真。1940年に最初に造られた発見のモニュメントはあくまでも博覧会用だったので、モニュメントの耐久性はあまり考えずに造られたという。

 

大航海時代に乗っかって行った人々を突き動かしていったのは、人間が持つ欲であった。この欲という目に見えない物が人間の行動を左右するのである。欲は自分の意識では気付かなくても、潜在意識の中に入っており、無意識でその欲に基づいて人間は行動してしまうのである。。

 

ただし欲という言葉は少し悪いイメージもあるけど、これは人間が生きていく上で必ず必要な要素なのである。

だからボクのように欲が少ない人間でも必ず欲は持っている訳で、欲が本当に無い人間は居ないのである!

 

続いて西側のモニュメントに移る前に、ここでも”常に元気な奥様”と記念撮影。ちなみに西側で一番左側にある像、つまにボク達の右側に見えている像は”コインブラ公爵”であったペドロ・デ・ポルトゥガル(Infante Pedro de Portugal)でポルトガル国王ジョアン1世の息子で、のちの国王ドゥアルテ1世やエンリケ航海王子とは兄弟だった人物。

ちなみにこのペドロは当時にしては珍しい、海外旅行が好きだった人物だという。

 

発見のモニュメントに飾られているカモンイスの像

こちらの面は15人の人物で構成されている。ただこの西面には日本人に馴染みのある人物は残念ながら居ない。よく耳にする名前では、ちょうど中央やや左に巻き物を手に持っている人物が16世紀に活躍し”ポルトガル史上最高の詩人”と称されたカモンイスである。

 

ある程度文明が発達し、戦に対しての武器などを開発できた時代だったので実質は侵略航海であったが、その大昔から人類は新しい居住区を開拓する為に、乏しい技術で造った筏を浮かべて大海原に繰り出していった。

 

そういう意味ではこの大海原に挑み、それを乗り越えていくというDNAが人間の体には大昔から刷り込まれているのかもしれない。

 

そんな像を前に記念撮影する”メルハバおっちゃん”だけど、遠近法の為に後ろの像よりおっちゃんの方が大きく見えるけど、実際は後ろの像の方がおっちゃんの3倍程は大きいのである。。

 

”常に元気な奥様”もこちらの像の前で記念撮影をしている。ボクは参加しなかったこの日のファドディナーショーに参加したお酒好きな”常に元気な奥様”は、ワインが飲み放題だったので沢山ワインを飲んで、ひとり大騒ぎしていたという。。

 

発見のモニュメントに飾られているフィリパ・デ・レンカストレの像

そして肩を組む”常に元気な奥様”と”メルハバおっちゃん”はさておき、この像で左から2番目に位置する、膝を付いて祈っている王妃の姿に見える人物はジョアン1世の王妃であるフィリパ・デ・レンカストレ(Filipa de Lencastre)である。

 

フィリパ王妃というと、昨日訪れたシントラ王宮で女官にキスした言い訳の為に、天井にカササギを100匹以上描かせたジョアン1世を寛大な心で許した奥様である。

 

さて先程見えたスリと思われる女性は、まだ広場をウロ付いています。この写真内にも写っていますが、我々の団体には現地ガイドさんが目を光らせていたので近寄っては来ませんでしたが。

 

奥にはベレンの塔が見える。パックツアーでは比較的高齢の方々が多いので、あそこからここまでは歩いてもスグだけど、わざわざバスで移動してきた。

 

発見のモニュメント近くにいた、スリと思われる人

そして再び発見のモニュメントの広場に差し掛かると、現地ガイドさんが教えてくれたスリと思われるグループが上手い事観光客に近づいている様子が見えた。この3人グループはみんな同じようなダウンを着て地味な色の恰好をしていて、観光客に近寄り、スリと思わせない為にたまに写真を撮ったフリなどをしていた。

人間観察が好きなボクにとっては発見のモニュメントよりも、このスリと思われる人達を眺めている方が面白かった!

 

ボクらがこの発見のモニュメントに来て、像などを見て回った約20分間後もまだこの広場にいる、こちらのスリと思われる人。

最後にこのスリと思われる人に対して「オマエを見てるぞ!」という意味も含めて写真を撮ると、そんなボクの方を睨んで舌打ちをされましたね。。

 

南米大陸は最もヨーロッパ人からの侵略・入植に対して、被害を受けた地域かもしれない。そう思うと秀吉や家康のようなキリスト教を追い出す政策は、日本の独自性を守る為には正しい決断だったのかもしれない。

 

こうやって発見のモニュメントの場所で、色々と眺めるとやっぱり大航海時代がポルトガルという国の全盛期だったのだろうという気がしてきた。

 

ちなみに20年以上も前に発売されて、当時プレーステーションで遊んだ「THE ATLAS(アトラス)」というポルトガルの航海時代を舞台にしたシュミレーション・ゲームがあった。それをプレイして遊んでいた時の記憶が甦った、ポルトガルでした。

そんな古いゲームも今ではゲーム配信されていて、代金を払えばパソコンでプレイできるらしく、えらく便利な時代になったと感じたのである。。

 

それにしても単純なモニュメントがある場所が、ポルトガルで最もスリが多い場所でもある事に少々驚く。でも冷静に考えてみれば、観光客が多く訪れて世界地図が描かれた地面や大航海時代の英雄の像に神経を集中して見ているし、テージョ川沿いなので気分がいい場所でリラックスしてしまうという要因がスリをこの場所に惹きつけるのだろう。

 

という事でスリが居たにも関わらず、我々のグループは被害に遭わなくて済んだようです。現地ガイドさんのおかげです。

 

「スリは一目で分かりますよ!」と現地ガイドさんがよく言っているのを聞く。何故スリを見分ける事が出来るのかというと、それは”違和感がある”からだという。特に何かに興味を持って眺めている訳では無い割に、長時間ブラブラとそこに滞在しているという、そんな動きが逆に毎日訪れる現地ガイドさんには目に留まるのだろう。

確かに毎日のように同じ場所を訪れて、何回か見かければ顔も覚えるし、いつ来ても居る人間はスリしか居ないのだろう。ボクみたいな素人からすると、その辺のベンチで鋭い視線をして座っている男がスリだと思っちゃうけどそういう訳ではないみたい。

 

という事で再びバスに乗り込み、リスボン市内の中心部に移動して行きます。

 

 

リスボン市内にて

ここはリスボン市内のレスタウラドーレス広場(Praça dos Restauradores)という、リスボン市内を走る大動脈の広い通りであるリベルダーデ通りと繋がる場所。高さ30mのオベリスクが目の前に見える場所でバスを降ります。

 

ここからリスボン中心部を少し散策するようです。

 

リスボン市内にも2階建ての観光バスが走っています。

前に香港に行った時に1度だけ2階建てバスに乗った事があるけど、その時は思っていた方向の街中には向かわずに、ドンドンと逆の山の方に登っていたのを今でも覚えている。。

 

昨日の夜に地下鉄のロシオ駅で降りたけど、この広場に辿り着く出口からではなく、隣のコルメシオ広場に出る出口から上がってきたようだ。

 

ここでもレンタルの電動キックスケーターが路上に置かれていたけど、ポーランドの街のように散らかってはいなかった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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