バルト三国旅行記:4日目
阪急交通社ツアー「バルト3国周遊 8日間」-2019年12月17~24日
最後まであがき続けたカウナス駅
ここはバルト三国と呼ばれる、バルト海付近の元ソ連領だった国の1つであるリトアニアの第二の都市であるカウナスに来ています。第二次大戦前、この辺りは西はナチスドイツ、東はソ連という大国に挟まれた場所でそれぞれの大国の諜報活動をするには最適な場所であった。そんな日本から遠く離れた場所に1939年7月に杉原千畝は派遣されてくるのである。
杉原千畝:記念館にて
こちらは”日本のシンドラー”とも称された、当時の日本総領事代理である杉原千畝記念館の、彼が仕事をしていた執務室跡である。
こちらは1940年8月16日に本国外務省から送られていた電報。その前月7月から日本総領事前に押し寄せてきたポーランド系ユダヤ人の難民達に、外務省からの指示を無視して独断でビザ発行の条件を緩め彼らにビザを発行した。そんな杉原に日本のビザを貰った彼らはシベリア鉄道に乗り、ロシア極東経由で日本の敦賀に辿り着いた。しかし外務省は自分達の提示した条件をクリアする者にしかビザを発給しないように指示していたのに、その条件をクリアしていない者にもビザを発行していた杉原に対して、ビザの発給を控えるようにという内容。
こちらはオランダ総領事だったヤン・ズヴァルテンディク。彼も”オランダのシンドラー”とも呼ばれていて、ユダヤ人難民に対して、オランダ領キュラソーというカリブ海の島への渡航ビザを発給していった。しかし第二次世界大戦の勃発により、避難ルートが無くなり窮地に陥った彼は当時ナチスドイツと同盟を組んでいた日本を経由してキュラソーへ移住する案を思いつく。なので杉原が発給したビザの多くには、このヤン氏が発給したビザが記載されていたのである。
こちらの壁には杉原が発給したビザのコピーが大きく張られている。当時のビザは全て手書きで、ハンコを2箇所に押さないといけなかった。約2,000枚以上とも言われるビザの発給作業によって、杉原の腕は悲鳴を上げていたという。
当時の外務省も「難民を送るな」という内容で指示していた訳ではなく、「渡航してきて次の目的地へ行く為のビザと、それに準ずる費用を有した者だけにビザを発給せよ」という内容だったという。ただし戦争で命からがら逃げてきた人達は、そんな書類や費用など持ち合わせている者はごく僅かであった。
杉原は再三外務省に対して、毎日大勢の人達が領事館前に押し寄せて命の懇願をしている状況などを伝えた。しかしそんな要請を受けても外務省の方針は変わる事が無かった。
そんな日本国政府の指示を頑なに守って、難民に伝えるが彼らは聞き入れない。何せ彼らはここに残っていたら、命を失うと思っていたから必死であった。日々難民は数が増えて、領事館前で朝早くから夜まで押し寄せていた。映画『踊る大捜査線』での青島刑事の名言「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」を連想させるような状況だったのだろう。
そして外務省からの命令に対して、無視してクビを覚悟で独断の判断でビザ発給水準に満たない者達へもビザの発給を行っていった。イチ民間企業であれば会社に盾付いてもあまり恐れる事は無いが、杉原が盾付いたのは日本国政府である。下手すれば自分だけでなく身内まで全員檻の中に入れられる可能性もあった。それだけのリスクを取っても、杉原がそういった行動を行った裏には途轍もない正義心と強い心があったのだろう。彼は自分の命よりも、目の前の難民の命を選択したのである。
しかしそんな難民達を救ったのは杉原だけではなかった。杉原からのビザを受け取り、シベリア鉄道でウラジオストックに向かった難民達。しかしそこから福井県敦賀に向かう船に本来のビザ発給水準を得てない為に本国から「渡航基準に満たない難民を載せないように!」と指示された、元ウラジオストック総領事代理の根井三郎。彼は杉原の後輩でもあり、現場の悲惨な状況を見ていたのでそんな本国の指示に対して猛抗議を行った。そして根井はビザを持たない者へも独断でビザを発給し、そんな難民達を日本へ送り出していったのである。
そしてそんな彼ら以外にも難民が海を渡ってやって来た福井県敦賀、お腹を空かして行くアテも無い彼らに敦賀の人達はもてなし、彼らに無料で食糧を分け与えたのである。だからこの”命のビザ”で杉原千畝が有名になったが、勿論彼の残した功績は素晴らしい事だけど、それ以外にも多くの人達による尽力のおかげでユダヤ人難民達は生き残る事が出来たのである。
そんな杉原千畝が下した判断により、色んな人達の命がリレーのように繋がれていったのである。
唐沢寿明とかと記念写真に一緒に写っていた、こちらカウナスの現地ガイドのお兄さん。日本語も流暢では無いけど話す事が出来た、そんな現地ガイドさんにお寿司キーホルダーをプレゼントすると「とてもウレシイです!」と喜んでくれましたね。
旧日本総領事館周辺の景色 動画
こちらは「北のカサブランカ」とも称される、カウナスでの1939~1940年の出来事についてのガイドブック。10€なり。
こちらは杉原千畝について書かれた、小さいガイドブック。文字は少なめでした。。
こちらは琥珀入りという石鹸の中サイズが入った化粧箱。
パッケージの上には「在カウナス大日本国領事館」というハンコのマークが入っている。
お土産の小分け袋と、小さいサイズの「杉チョコ」。こちらのチョコはお土産としては人気があるという。
杉チョコと聞くと、杉良太郎のチョコかと思ったけど、杉原千畝のチョコでした(笑)
こちらの公園の一部は墓地になっているようだ。
カウナス市内にて
まずは杉原千畝記念館を訪れて、それからカウナス市内に移動する。カウナスでは杉原千畝ゆかりの場所が合計3箇所あるとの事で、これから後2箇所へ向かいます。そんな移動の途中にバスから見えた「1EURAS」というお店、ネーミングの通り百円均一ならぬ”1ユーロ均一”のお店みたいです。
こちらの建物はビール醸造所。
思わず、喉がゴクリって反応してしまう・・・
レトロな外観のトロリーバス、このデザインは落書きされた物なのか? それともあえてこういう画風のデザインにしたのだろうか??
意外とボロい建物が並ぶカウナス市内。第二次世界大戦前の時代は、現リトアニア首都のヴィリニュスはポーランドに占領されていたので、当時のリトアニアの代理首都はこのカウナスであった。その為に、このカウナスの人達はヴィリニュスの人達には抵抗感があるという。
カウナス駅にて
お次の目的地はこちらのカウナス駅である。先程の杉原千畝:記念館からは徒歩で約15分位の距離にある。
ちなみに現役の駅の割には、あまり周囲に人が居なかった。
1940年8月にリトアニアはソ連の占領を受け入れる。リトアニアのソ連による占領が始まり、すぐにリトアニア国内に点在する全ての大使館に8月25日までに退去するよう通知される。ただしアメリカ・イギリス・フランス・日本に対しては9月5日まで活動できるように特権が与えられたという。
杉原千畝は8月31日まで領事館に滞在し、その後はカウナス市内にあるメトロポリス・ホテルに滞在しビザ発給活動を継続。
そしてリトアニアからの退去期限前日である1940年9月4日に、ベルリンに向けてここカウナス駅で国際列車に乗り込むのであった。
杉原千畝は領事館を退去して、メトロポリス・ホテルに滞在し、ここカウナス駅で列車に乗るまでの間も難民にビザを発給し続けた。
ヴィリニュスまでは104km、ベルリンまでは1056km、ブリュッセルまでは1688kmとの標識がある。
カウナス駅では特に改札を通らないと中に入れない訳ではなく、自由にホームなどに立ち入りできる。
杉原千畝は当時日本国と同盟を結んでいたナチスドイツから、彼らの敵と見られていたユダヤ人を逃がすのに手を貸していた為にゲシュタポ(ナチス秘密警察)からマークされていた。また彼の行動はナチスドイツから日本国へ名指しで批判されていたという。
こちらは2015年に設置された、杉原千畝のプレート。上からリトアニア語、日本語、英語で文字が彫られている。
こちらの自転車入れのように見えるボックス。
ここからはポーランドに向かう国際列車なども運航しているようだが、全然活気がなくあまり列車が行き交って無かった。
唯一走っていたのはこちらの小さな列車。
車体にはリトアニアの国章が描かれている。
カウナス駅前にあった看板は、よ~~く見たらシャコティス(バームクーヘンの原形とも言われる)の物だった。しかしそんなシャコティスの横のお姉さんの顔は落書きだらけ・・・。
カウナスは何とも落ち着いたというか、寂れた街のような雰囲気も醸し出していた。
結局建物内には入らずじまい、先程の杉原千畝氏の記念プレートだけ見に来たみたい。。
こちら中央に見えるのはサッカースタジアム。
カウナス中心地ではあのMAXIMAスーパーで最大級の「×××」とトリプル・エックス表示の店舗を発見!
カウナスの人口は約35万人前後で、第二次世界大戦前はリトアニアの首都で工業都市として発展した。
カウナスのバスから見える景色 動画
街中のロータリーの中にあった緑の広場には、周辺に馬が走っているプレートが置かれていた。思わずこれを見た添乗員さんから「そういえばもうすぐ、有馬記念がありますね!」との一言あり。
さてこれからはカウナスの旧市街地の観光です。中央右奥に見えるのはカウナス城。
バスを降りて少し歩いた建物の外壁には、ご覧のように面白い絵が大きく描かれている。
こういった遊び心はいつまでも大事ですよね!
という事でカウナスの旧市街地はどんな感じになっているのか?!
こんな旅はまた次回に続きます!
↓↓↓↓バルト三国旅行記:初回↓↓
【コメント欄】