永遠のゼロの零戦パイロットである「宮部久蔵」は実在の人物だったのか?
先に結論を言うと、宮部久蔵は・・・・・
・・・・・・実在ではありません。
ではそのモデルがいたのか?
・・・・恐らく色んな人物が重なった複合体でしょう。
作者も色々な戦争本を読んでおられて、気に入ったエピソードを繋げて理想的な人物を創り出したのかと思われます。
・浜園重義さん??
参考
英タイムスが報じたカミカゼパイロット美談 – 木走日記 より
あなたがいまだ彼のまゆに痕跡を残している火傷の痕、および彼の腕の中にある弾の断片を見つけたとしても、ハマゾノ氏の経験した並はずれた物語は決して推測できないであろう。
彼は神風のパイロットであったので21歳のときに死ぬように運命づけられていたのである。
ハマゾノ氏は、彼の母国のための犠牲者として喜んで死ぬことを覚悟した、そして生と死の狭間を彷徨った。
その先に見たものは、彼自身も驚異のことなのだが、彼は生を選択したのだ。
彼は、先のわからない戦争のために志願してだまされた、彼ら自身と彼らの仲間の犠牲に対してそれでもなお深く愛憎を持った、そして、死からお互いを救うために大きな危険を冒した、彼のような青年達の話をする。
「私は、訓練を終え真新しい制服で空軍基地に到着した若いパイロットをとてもたくさん見ました」
「翌日、彼らはいないのでした。」と、彼は語る。
「表向きは、自分たちが神風のパイロットであることはやむを得ないことであると考えていました。」
「しかし心で奥底では、彼らが望んでいたことではなかったのでした。」
ハマゾノ氏は南日本の漁師の家に生まれた。
1941年12月の真珠湾攻撃の後、彼は可能な限り急ぎ志願した。
彼は言った。
「私の母はほとんど読むことができませんでしたが、彼女が書けるわずかな単語で私に手紙を書きました」
「負けないでください」と「死なないでください」と。
この2つの要求は互いに相反するのでこの指揮官(母親)を守るために戦争をするのは、若いハマゾノ氏の不運であった。
日本の初期の勝利がゆっくりと過酷に反転していく中で、彼は海軍の戦闘機乗りとして数多くの命拾いをしてきた。
そうして、気付くと、1944年10月に、彼はフィリピンにいた。
そこでは、最初の神風特別攻撃飛行隊が編成されていた。
特別攻撃飛行隊への参加は完全に自発的であった。
そこでハマゾノ氏のグループ100人のパイロットに1枚の紙が渡され、志願したことを示す丸をマークするか、または辞退するならバツをマークするように指示された。
「3人がバツをマークしました。」と、彼は語る。
「そして、彼らはやむを得ずとにかく飛び立ちました。」
「敵を見つけることができなかった、または燃料がなくなっていたと言いながら、彼らのうちの何人かは戻ってきました。
再び彼らは出撃させられました。
私は彼らをそのように続かせた上官に対して憎しみを感じます。」
「ある日私は指揮官によって呼びつけられました。そして、彼は『すまんが、明日、行ってくれるか?』と言いました。すぐに、それが何を意味するのかを悟りました。」
「軍のパイロットとして、いいえを言うすべは全くありませんでした。 私は私の訓練、私に与えられた責任、および私のゼロ戦に感謝していました。 これは私の義務でした。 その夜、私が考えたことは、すべて私の任務のことだけでした。」
他の2人のパイロットと共に、翌朝ハマゾノ氏は離陸し、彼らの目標である英国艦に向かった。
ゼロ戦を飛ばした2年間で、彼には技術的問題は一度も起こらなかった。
しかし、今回は燃料が突然プロペラから漏れ始めた。
彼のコックピットの窓の向こう側に噴射され、彼の視界をさえぎったのだ。
前方の航空機のいる彼の指揮官へ無線連絡したところ、彼は基地に帰還するように命令された。
次に、別の指令が飛んだ。
彼が飛び立ったマニラではなく、台湾に帰還せよと。
「以前はよくパイロットの最後の言葉は‘天皇陛下万歳!’であると聞かされていました」と、ハマゾノ氏は言った。
「しかし、私はそれが嘘であったのを確信しています。 彼らは私が叫んだであろうことを叫んだに違いないのです。彼らはお母さんと叫んだのでした。」
永遠のゼロで宮部久蔵の特攻エピソードエンジン不調は、この話から来ていそうです。
浜園重義さん Youtube動画
・石野節雄さん(石井兼吉)??
特攻機に乗り込み、戦艦ミズーリに低空で接近して体当りした人物です。
1945年4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、一機の零式戦闘機が米国戦艦「ミズーリ」の右舷艦尾に体当たりをしました。
実はこの時期にはアメリカ軍との戦力差は歴然としていて、同じように相手船団に特攻をしかけても殆ど船までたどり着けずに墜落し無念の死を迎えてました。
しかし彼は海面すれすれの一歩間違えれば海面と激突してしまうぐらいの超低空を長時間飛び続け、敵の情け容赦ない対空砲火を交わして突入したのです。
永遠のゼロで宮部久蔵の最後に戦艦に低空から突撃するシーンは、この逸話を元にしていそうです。
この特攻自体は大きな損害を与えれませんでしたが、敵ながらこの勇敢な攻撃に心を打たれたミズーリの艦長は、この特攻隊員を手厚く葬ることをします。
しかし艦内からは自分達を攻撃した敵に同情する事に対しての反対もあったそうですが、艦長は
「敵兵でも死んだら敵ではない。
国のために命を捧げた勇士である。
これは艦長の意志である。
丁重に葬ってやりたい」
と断固主張し、遺体を白い布で包み、翌日全員敬礼をして水葬にしたという。
自分の命に危機を感じながらも「敵ながら天晴れ!」と思えるアメリカ軍の艦長も武士(もののふ)であったのです。
【参考文献】
戦艦ミズーリに突入した零戦 [単行本]
可知 晃 (著)
・坂井三郎さん??
彼は何よりも列機(仲間)を大切にしました。
そして出陣の度に、必ず列機を連れ帰る事を誇りにしていた。
しかし自分の大事な2番機を他人に預けた時に、その機を失い嘆き悲しみます。
また敵機を撃ち落し、パイロットが海上に不時着しその後鱶(ふか:サメ)に襲われるのも目撃しています。
彼の信条は
「まず先に敵機を発見する事!」
視力は2.5もあったそうで、1万メートルも先の敵機を発見できたそうです。
夜中には遠くに光る星を見て、視力向上のトレーニングをしていたという。
そして飛行中は周囲に敵機が居ないか、どんな時でも常に警戒していたそうです。
戦時中の戦闘機に乗るパイロットは敵機の撃墜数を一番の成果として認識されガチだけど、映画の中での宮部久蔵みたいに生きて戻ってくる事の方が大事だったと思う。
だけど映画の中では常に周辺を警戒してキョロキョロしていた宮部久蔵に対して、染谷将太が演じた若手:大石 賢一郎はその宮部の様子を見て「臆病者」と感じた描写がなされていた。
しかしその周囲を見回す行為は臆病だからではなく、生きて帰ってくる事を最優先にしていたからだった。
ただ生きて帰るのは家族に会う為もあったと思うが、生きて戻ればまた戦えるが、無謀に散っていくと貴重な戦力がどんどんと落ちていく事に繋がった。
太平洋戦争序盤には日清戦争などで実戦を経験した熟練パイロットが多かったが、その力を過信した司令部はどんどん無茶な攻め方に傾向していき、次第に熟練パイロットをことごとく失ってしまう。
特に零戦はとてつもない機動力を発揮する為に、パイロットを守る安全性を極限まで切り詰めた。
その為に欧米の戦闘機に比べて、被弾した際の墜落率が高かった。
これは現代の企業にも言える事だけど、社員のマンパワーに頼って営業方針を無茶な高めに固定し続けると、どこかで限界が来て破綻してしまう。
そう思うと、大事な事は無謀な事を勇敢と勘違いして死ぬ事ではなく、劇中の宮部久蔵みたいにどれだけ殴られようとも”生きて帰る”という信条を貫き通す事なんだろうと感じた。
ちなみに坂井三郎さん曰く、当時のラエ前進基地で戦っていた零戦部隊が最強だったとか
(坂井三郎、笹井醇一、西澤広義、太田敏夫等)
調べれば調べる程に皆さんの勇気に感服します。少しでも見習いたい所ですね。
【コメント欄】
こうゆう戦地に赴き、国いいえ家族・兄弟・兄妹を守る為に彼等は、毎日の様にゼロ戦に乗り航空基地を飛び立ったて行ったんだと思います。
今日、初めて永遠の0をDVDで見ました。そして、そこに出てくる宮部久蔵の勇敢さ(?)に惹かれて実際にいたのか調べましたが、さすがにあんなに人生の手本になる人はいなかったんですね。ただ、モデルになった方々が実在したのは事実なので、私もこの人たちが大切にしていた信念のように己の信じる信念を貫いていきたいですね。
かかたん さん
コメント、ありがとうございます。
映画『永遠の0』を見ると、本当に宮部久蔵のような志熱い人間が実在したか、知りたくなってしまいますよね。
余りにも多くの若い青年の命が散った戦争がかつて日本で実際に行われていた実感が風化している日本ですが、生き残った零戦パイロットの本などを読むと、生々しい戦争の様子を知る事ができます。
そしてそんな戦争に参加した人達が命を懸けて獅子奮迅した結果、今日の我々日本人の命があるのです。
そう思うと、未来の日本の為に命を尽くしてくれた先人達に感謝しながら、自分達もその信念を引き継いで生きていきたいですよね!